4/9に新井賢一先生が逝去された。18日お通夜に参列してきた。2週間ほど前に宮島先生の会でお会いしたばかりなので訃報を聞いたときは耳を疑った。新井先生とはDNAX時代からお世話になってきた。直接研究の指導をしてもらったわけではないが、なにかれと目をかけていただいた。医科研の所長をされていた頃訪ねていったら、海外との提携やベンチャーのことなど壮大な話をしてくださった。スケールの大きさに圧倒されて当時はやや気後れしてしまったが、退官後はいつもやさしく声をかけてくれていいオヤジという感じだった。ご冥福をお祈りしたい。
先週から息つく暇がないほど忙しい。通常4月はやや余裕があるのだが報告書書きやAMEDの準備が重なった。研究費の切れ目なので申請書も書かないといけない。それに重要な論文の執筆が重なった。論文を書く作業は強いストレスだが頭を整理する作業でもある。以前データを見せてもらったときは「意味ない」と思って気にも留めていなかったことが「ある仮説」で考えるとそれを支持する重要なデータだったんだ、と再認識することがよくある。書くと何が足りないか、次に何をやるべきかも見えてくる。本当は日々の実験や議論の時に「すっ」と出てくると「さすがだ」と思われるし、大変な時間と労力の節約になるのだろうが、この〇〇チュウ頭ではなかなか難しい。こういうところにAIが常にアドバイスして適切な実験を指示してくれるようになれば教官は随分楽になるだろう。いや私のような半ぼけ教授はそもそも要らなくなるかもしれない。
ともかくどうせロクな意見はもらえない、と思いつつも老教授にデータを見せることは重要だろう。彼の記憶の引き出しに残すことが大事なのだ。実験した本人が忘れていることですら集中していて一瞬だけ神がかった教授には思い出せる(こともある)。そのへんの「ひらめき」の仕組みがわかるともっと楽になれるんだろうが。
例えば新井先生の場合、私のようなサイエンス以外のところで影響を受けた者よりも実際に直接実験指導を受けた人たちはもっと強烈なインパクトを受けたに違いない。研究に限らず出会いは極めて重要でその人の人生すら変えることがある。だからアカデミアをめざす大学院生には留学を勧めている。若い人には密着して指導してくれる人のほうがいいような気がする。でも逆にそれが強すぎると指導者の言うことを聞くだけで自分で考えない人もいるかもしれない。人それぞれなので難しいが自分を変えてくれたと思える指導者に出会えることは本当に幸運なんだろうと思える。自分のようなダメ教授でも反面教師としてそれなりに存在価値があるに違いないと思うことにする。
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