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留学体験記   ボストン留学の思い出(学業編)
かなり古い文章で「若気の至り」が随所にみられるが当時の高揚した気分を伝えるためにできるだけそのまま掲載します。

 平成元年(1989年)10月1日、私は成田からワシントンに向かう全日空便に乗り込んだ。おそらく初めて留学する人が誰でも感じるであろう期待と不安を私も胸一杯にかかえ込んでいた。なにしろこれからボスとなるHarvey Lodish先生とは事務的な手紙以外では全く面識もなく、私が日本人留学生としては初めてなのでどんな人間か誰も知らなかった。英語のほうも全く心もとない(3か月もすれば慣れるという周りの留学体験者の話を真に受けてほとんど勉強しなかった。後にこれは、3か月もすれば研究室の連中が日本人が喋れないことに慣れるのだ、あるいは3か月もすれば自分が喋れないことに慣れ自己嫌悪に陥ることもなくなるのだ、という意味であることがわかる)。それでも、不安を抑えて、自分はこれから基礎医学生物学の分野では世界最高の研究所(1989年の調査)に行くのだ、CellかNatureかScienceに論文を発表するまでは日本に帰らないぞ、と何度も自分に言い聞かせた。私達の最近の生命科学の分野(分子生物学、細胞生物学など)ではこれら3つの雑誌が最も権威があり(CNSと言われているそうな)、これらの雑誌に論文を出すことは等しく基礎生命科学研究者の憧れであり、世界の科学者達から注目される道なのだ。そしてそのような雑誌に数多くの論文を発表しているHarvey Lodish教授の研究室で仕事をするからにはきっと自分も、と思わずにはいられなかった。
 そもそもMIT(Massatusetts Institute of Technology)を留学先に選んだのはそういった学問上の魅力もさることながら、Bostonに強く惹かれるものがあったためである。留学に先立つ4年前に私は一度Bostonを訪れたことがあった。そのときBostonの古い街並みとボストン美術館が大変気に入って、留学して再びここに来ようと思った。小沢征爾だっている。ご存じの様にボストンは歴史(といっても高々300年ではあるが)の街であり数多くの大学を擁する学問の街でもある。私が学生時代を過ごした京都と良く似ている。何時かきっとと思い続けていたらそれが実現した。ワシントンを経由してボストン空港(ローガン空港)に降り立った時は感無量であった。学生時代の同級生である芝清隆君が迎えに来てくれていた。アパートが見つかるまで、彼の部屋に厄介になることにした。

 翌日、Lodish教授のいるホワイトヘッド生物医学研究所に顔を出した。初めて会った教授は赤ら顔の小柄なおっさんだった(当時48歳)。やたら大きな声でしきりと電話をかけ忙しそうである。明日から仕事でヨーロッパにいくので適当にポスドクと話をして何をやるか決めておけという。私は頭の上にみるみる暗雲がたちこめるのを感じた。物凄く頭の切れるボスが魅力的な研究テーマを与えてくれて言われた通りにしていればいい論文ができるものと期待していたのにテーマから自分で選ばなければならないとは、、、。もちろんボスにもよるのだろうが、一般的にMITの教授は放任主義らしい。うがった見方をすれば優秀なポスドクがいくらでも入ってくるのでボスが口出しするより、好きにやらせたほうがずっと良い成果がでるにきまっている。教授はそれを自分の仕事として発表すればよいわけだ。こんな楽な商売はない。ノーベル賞だって貰うのはほとんどアイデアさえ出していない教授であり、実際に考え手を動かした弟子は忘れ去られる、といった例がかなりある。同じホワイトヘッドのWeinberg教授だってそうだ。最近話題になった”がん遺伝子に挑む”(東京化学同人)という本を読んでみると、実はWeinberg先生のアイデアは間違いだらけで、それを修正して成功させたのは彼のポスドクや大学院生たちであるということがよくわかる。だが逆の見方をすれば、彼らは若い人達の才能をうまく開花させる優れた教育者ともいえる。私はHarvey (Lodish教授のこと)から目の覚めるような核心的なアドバイスを聞いたことがない。しかし彼からどうしてもこの実験をやれと言われたことは一度もない。彼はアドバイスするときは必ずsuggest かI wouldを使い、強制は決してしなかった。私がこれこれこういう実験をやりたいと言えばdo itといって(自分では面白いとは思わなくても)好きにやらせてくれた。すべてのポスドクに対してそうだった。研究に必要な材料や資料の手配は喜んで引受てくれた。そして優れた成果をあげたポスドクが独立して自分の研究室を持つことに援助をおしまなかった。講演ではその仕事を行なったポスドクの名前を連呼して皆にアピールしていた。アメリカは自由な競争の国である。若い人にどしどしチャンスを与えてくれる。Harvey自身MITの準教授になったのは30歳前後のことである。日本で言う教室と同じかそれ以上の規模の研究室を30歳で率いていたのである。だがこのような放任主義の裏には強力な自然淘汰、選別作用がある。先の見通しの利かない人間や大学院時代に充分なトレーニングを積んでいない人間にとっては大変な苦痛である。好きなことをしてよい代わりにまともなアドバイスは期待できないからすべて自分が頼りである。うまく実験がゆかないまま数年を無為に過ごし去ってゆくしかないポスドクも多い。むしろそちらのほうが多いのかもしれない。そんなポスドク達の姿は”がん遺伝子に挑む”に詳しい。

 さて、アパートも決まって銀行口座も開き、英語が喋れないばかりに人には言えないような苦労を重ね、ようやく本格的に仕事を始められる環境が整った。Harvey Lodish と言えば、昔は転写調節などやっていたようだが、私たちの世代にとっては陰イオン輸送体バンド3とグルコース輸送体のクローニングで有名である。バンド3のほうは彼の弟子たちによって引き続き研究されているがもはやホワイトヘッドでは誰も研究していなかった。グルコース輸送体の方は糖尿病との関連もあって、世界中しのぎを削って研究されていた。当時5人ほどのポスドクが関っていたが、私にはもはやこれから参入する余地はないように思えた。私が目を付けたのはクローニングされたばかりのエリスロポエチン受容体であった。1年ほど前に、小児科医のAlan D'Andreaと言う男がGenetic Instituteという遺伝子工学の会社と協同で釣り上げたものだった。なぜエリスロポエチンか?特に理由があってHarveyがやりたかったわけではない。Harveyのラボではポスドクがこれをやりたいといえば通るのだ。Alanの場合はその幸運な例だ。Expression Cloning という最新の技術のおかげで、これまで困難と考えられていた微量分子のクローニングがいとも簡単に行なえるようになった。さらにエリスロポエチン受容体のクローニングには大きな利子がついていた。T細胞増殖因子であるインターロイキン2の受容体ベータ鎖との相同性の発見と、マウス赤白血病ウイルスの糖蛋白質による活性化である。前者はその後さらに各種インターロイキンやコロニー刺激因子(主に造血器細胞の増殖分化因子)そして成長ホルモンなどの受容体と共に大きなファミリーを形成していることが明らかにされサイトカイン受容体ファミリーと呼ばれるようになった。これによりエリスロポエチン受容体の研究も普遍性がでてきて、免疫学者から分子生物学者まで広く関心を呼ことになる。後者はウイルスによる白血病発生の原因を究明するうえで大きな手掛かりをあたえた。マウスにあることならヒトにも起こっているかもしれないし、エリスロポエチンに限らず他のサイトカイン受容体の関与する癌だってあるだろう。そういった点は今世界中でたくさんの研究者が調べている。

 まず研究テーマを選ぶ前に一通りポスドクや大学院生と話をした。3人の大学院生と12,3人のポスドクがいる。驚いたことにエリスロポエチン受容体の研究をしているのはAlanを含めて僅か3人に過ぎなかった。クローニング以降の仕事もそれほど進んでいるようには思えなかった。話をしていて彼らのレベルがずば抜けて高いというわけではないということがわっかた。博士号をもったポスドクよりもむしろ大学院生のほうが優秀である。これは考えてみれば当然のことで,大学院生はMIT、Harvardの卒業生であるのにたいし,ほとんどのポスドクはアメリカのあまり有名とはいえない大学出身かヨーロッパ,南米,中国など世界中からやってきた連中である(もちろん彼らはある一定レベルの仕事をしてきたからこそWhitehead Instituteにいるわけなのだが)。アメリカでは伝統的に自分が博士号を取った所とは違った場所でポスドクをするものらしい。ともかくラボの連中がおなじ人間であることがわかって安心し、またすぐに魅力的な研究テーマも見つかって嬉しかった。すぐにでも実験を始めたかった。しかしそうはスムーズには行かなかった。

 なぜ今後大きな発展が約束されているエリスロポエチン受容体の研究に僅か3人しか従事していなかったのか。一つにはAlanの性格があった.彼は自分の取ったクローンの所有権を主張し,他のポスドクの実験に制約を加えていた。彼に承諾を得なければ実験計画さえ立てられないようでは世界的な競争に勝てない。Harveyは例のごとく研究室内の管理にはあまり熱心ではなく私がエリスロポエチン受容体の仕事をしたいからと言ってAlanと話をつけてくれるまで3週間以上かかった。それでもとにかく実験はスタートされた。もう11月に入っていて寒さが身にしみる季節となっていた。
  私が当初狙った仕事はエリスロポエチン受容体の第二のサブユニット探しだった。兄弟分のインターロイキン2受容体をはじめ多くのサイトカイン受容体はアルファ鎖とベータ鎖2種類のサブユニットから構成されておりエリスロポエチン受容体もクローニングされた分子以外に別のサブユニットがあるのではと考えられていた。実はこの問題は今でも解決されていない難問なのだが,ともかく免疫沈降で生化学的にサブユニットを探すというオーソドックスな方法から始めることにした。アメリカでどんなに実験がやりやすいか,どんなに研究環境が整っているか,すでに多くの紹介があるのでいまさら繰り返して述べない。とにかくここは世界一の研究所なのだ(もっとも、今では日本のラボは設備面でも資金面でもWhiteheadよりいいらしい。正直言って私は鹿児島から来たときここは天国だと思った。しかし、日本にWhiteheadよりいい場所があることを聞いて二度びっくりした。日本は貧富の差が激しすぎる。しかしそれ以上になぜアメリカから先進的な成果が生みだされるのか?その答えはみなさん自ずとわかるでしょう?わからなければ私にメールください)。日本にいたときと比べて半分の時間で二倍の仕事ができた。生化学の手法なら長年の経験があるし自信もあった。細胞も抗体も準備されていたのであとはひたすら実験すればいい。初めの1か月を取り戻すかのごとくがむしゃらに働いた。Aki(私のこと)はquietでいつ見ても働いていると言われた。なんのことはない、英語が弱いのであまり喋りたくなかったし、実験していれば話さずにすんだからだ。朝9時から夜12時近くまで働いた。働き過ぎの日本人の代表のようなものだった。これも周知のごとくアメリカ人は夜遅くまで働かないし週末は全く仕事にタッチしない人が多い。Harveyのラボでは私が初めての日本人だったから皆驚異の目で見ていたにちがいない。しかし、実は私も留学の後半はのんびり仕事をするようになって、Akiもアメリカ人になったと言われたものだ。

  エリスロポエチン受容体の動態を調べて行くうちに第二のサブユニット探しが容易でないことがわかってきた。細胞内で合成された受容体はあっというまに分解されて細胞表面に発現される受容体はごく僅かなのだ。生化学的方法では第二のサブユニットは見つけられないことは明らかだった。しかしこれらの実験をとおしてエリスロポエチン受容体の代謝が初めて明らかとなった。またマウス赤白血病ウイルスの糖蛋白質が細胞内でエリスロポエチン受容体と結合し受容体を安定化させることもわかった。Harveyはこれらの結果に大変興味を示しアメリカ科学アカデミーの機関誌である ProNatlAcadSci に発表しようと言いだした。ともかく細胞生物学的には面白い発見である。彼はアカデミーの会員なので彼が出そうと言えば ProNatlAcadSci には無条件で載る。かくしてアメリカの土を踏んでから僅か3か月半、実験を始めてから2か月余りで私の第一報は完成した。自分でも驚きだったが周りはもっと驚いた。あんな無口でろくに英語も喋れないやつが3か月で論文を完成するという記録的なことをやったのだ。このころからそれまでうさんくさそうな顔で私を見ていた人達も私の存在を認めてくれるようになり、私も少しずつ皆と話しをするようになっていった。

 さて生化学的方法では第二のサブユニットは見つけられないなら、なんとか別の方法を考えなければならない。私はエリスロポエチン受容体が不安定なのは第二のサブユニットの発現量が少なく、一人身の受容体では安定に存在しえないのだろうと考えた。ならば第二のサブユニットの発現が多い細胞では細胞表面の受容体数が多くなりエリスロポエチンに対する応答性も良くなるだろう。エリスロポエチンの濃度を下げてゆきそれでも増殖できる細胞を選別すれば第二のサブユニットの発現が多い細胞が得られるにちがいない。そう考えて私は選別の仕事を生化学の仕事の合間をみては進めていた。一種のミュータント探しである。このような実験は通常時間がかかり成功する率もかなり低い。気長にやるつもりだった。もうすぐクリスマスだ。第一報のメドもついたし、自分でもよく働いたと思ったので、昔の知り合いを尋ねてニューヨーク、ワシントンへ旅行した。その年は記録的な寒波が押し寄せてきた年だった。なにしろただでさえ寒いのに記録的な寒波である。ニューヨークでは夜の街をほっつきまわってあやうく凍死するところだった。あまりの寒さにクリスマスだというのに人通りも少なく強盗もさすがに今夜は休業だろう。ワシントンでは大雪に見舞われた。しかし久しぶりに暖かい家庭料理に迎えられてほっとした。このころはまだアメリカの嫌な面が目について日本が恋しい頃だった。望郷の念が募った(ちなみに私がその後英会話を習った時の先生は、外国人が異文化に順応してゆく過程を3つに分けていた。始めの3か月は異文化を嫌い自国を讃美する時期。次の3か月は色々なことに慣れ異文化を吸収しだす時期。それ以降は逆に自国の嫌な面を思い出しては今のほうがいいと思うようになる。私もまったく同じ経過をたどっていった)。

 しかし4、5日の旅行が終わってボストンに戻ってみるとすばらしいクリスマスプレゼントが待っていた。旅行前に選別にかけていた細胞の中に低濃度のエリスロポエチンでも増殖している細胞があったのだ。だめでもともとの実験だった。自分はなんて幸運なのだろう。もしサイエンスの女神がいるのなら今こそ女神が私に微笑んでくれている時に違いない。いやいや運も実力か。大晦日、かぜで熱を出したものの私は意気洋洋として新年を迎えたのだった。
 私は2種類の変異細胞を手にしていた。一つは当初の目論見のごとくエリスロポエチンに対する応答性が良くなった細胞。もう一つはエリスロポエチンがなくても増殖できる細胞。ところが予期に反して細胞表面の受容体数はどちらももとの正常細胞と変わらなかった。私は単にへんてこな細胞を選択したに過ぎないのかもしれない。後者は単に癌化した細胞かもしれないし、特にまわりで使っている赤白血病ウイルスの混入が疑われた。それでもまだ捨てるには惜しい。とにかく受容体の代謝を調べてみよう。
 サイエンスの女神はまだ私を見捨てていなかった。エリスロポエチンに対する応答性が良くなった細胞では分子量の小さな変異受容体が合成されていたのだ。どうやら受容体のカルボキシ末端(細胞の内側)が欠けることでエリスロポエチンに対する応答性が良くなるらしい。この発見はいまのところ全く未知の受容体の情報伝達機構を調べる上で大きな手掛かりとなるに違いない。もう一方の変異細胞だってもしかしたら受容体に突然変異があってリガンドであるエリスロポエチンがなくても受容体が恒常的に活性化されているのかもしれない。そうなればサイトカイン受容体のなかでは初めての癌遺伝子の発見である。ともかくはじめの欠失変異の発見だけでも重要なことだ。私は棚からボタモチを拾った気分だったが、皆この発見に興奮した。なにより方法論がユニークでスマートだった(もちろん、当初狙った意図とは異なった方向にいってしまったのだが。ともかく勝てば官軍なのだ)。やがて1990年1月末、私の初めての研究発表の日が近づいてきた。
 

  Harveyのラボでは毎週一回のセミナーで、一人の研究員がそれまでの研究成果を約一時間にわたって発表する。人数が多いから4ー6か月に一度しか回ってこない。しかしこれは大事なプレゼンテーションの訓練の場でもある。皆スライドやOHPを駆使してかなり力を入れて準備している。英語に自信のない私には不安というより恐怖であった。セミナーの前の2週間を実験をほとんど止めて準備にあてた。同時にProNatlAcadSciの論文書きも進めた。仲の良い大学院生のChrisは”Aki、お前が喋れないことは皆が知っている。お前には沢山のデータがあるのだから気にするな。スライドを沢山用意してスライドに喋らせばよい”、という本当のこととはいえこの3か月で少しはましになったかと密かに思っていた自信をいとも簡単に打ち砕くようなショッキングなアドバイスをしてくれた。セミナーの前日には親しい大学院生達を集めて予行演習までやった。いよいよセミナーの日である。アドバイス通り山のようにOHPを用意してOHPを読めば私の英語は聞かなくてもよいようにしておいたので皆良く理解してくれたようだ。実はこの時までエリスロポエチン非依存性の変異細胞のことは誰にも話していなかった。ウイルスの混入だったら、身も蓋もないと思ったからだった。ウイルスの混入を否定するデータはセミナーの日の朝得られた。私はエリスロポエチン受容体の生化学的な解析の結果と新たに得られた2種類の変異細胞の話をした。変異部位の明らかな変異細胞が得られたことはもう仕事の8割は終わったようなものだ。一度のセミナーで論文2つ分の報告をしたのはお前がはじめてだ、と皆が賞賛してくれた(この記録は後に大秀才の大学院生Herb Linの出現で破られることになるが。彼は論文3つ分の発表を行った)。この日初めてこのラボを選んでよっかったと心から思った。私はあの英語の先生のいう第一期を通り過ぎたようだ。この日の夜日本から妻がやってきた。これ以降生活も楽しくなり私は第二期を瞬く間に通り越し第三期に入った。私はアメリカが大好きになった。

  さて変異細胞からエリスロポエチン受容体の遺伝子をクローニングし変異部位を決定することは容易に思われたがここからは私にとって馴染みの薄い分子生物学の仕事である。ラボの連中は割と親切に教えてくれたが、思ったよりも時間がかかった。変異の明らかな欠失変異の方から取り組むことにし、これは3月の半ばには決定できた。Harveyはこれもとにかく早く論文にしようと言いだした。しかし今度はそううまく事は運ばなかった。AlanがCellに出す自分の論文に私の欠失変異のデータを入れろと言うのだ。もちろん私は第二著者である。Alanもそのころ私と同様の結果を得ていた。彼は変異細胞の選択ではなくエリスロポエチン受容体遺伝子に人為的に欠失を導入することで同じ結論を導きだしていた。もちろんアイデアは私の方が先である。確かに私のデータとAlanのデータを一緒にすればよい論文になるだろう。だがAlanは自分が第一著者になることを主張した。自分はクローニングの論文以降第一著者の論文がない、他の連中がおいしいところだけさらっていってどんどん論文を出している、自分にはAkiのデータを要求する権利がある、というのだ。なにやらアメリカが日本に無理矢理多国籍軍へ多額の金を要求するような無茶な論理である(この年、湾岸戦争が起こった)。私は徹底抗戦できたかもしれないが、あっさり引き下がった。HarveyがAlanの案に傾いていたせいもあるが第二著者でもCellに載るなら、と思ったからである。それほどCellに名前が載るというのは憧れなのだ。また確かにAlanが少しかわいそうでもあった。なにより私にはまだエリスロポエチン非依存性の変異細胞がある、と強がってみせた。(後にこの論文はCellからリジェクトをくらい、かなり遅れてこれもかなりレベルの高い雑誌ではあるがMolecular and Cellular Biology(MCB)という雑誌に載ることになる。)

  私は欠失変異を放棄してエリスロポエチン非依存性の変異細胞(点突然変異があると期待された)に集中することにした。これに賭けていたが本当に点突然変異であるという保証はなかった。私はサイエンスの女神がもう一度微笑んでくれることを祈らずにはおられなかった。今度はかなり長い遺伝子のなかから一つの点突然変異を探す作業である。くる日も塩基配列を読む単調な仕事を繰り返した。もしかしたら変異は無いかもしれない。いくつかクローニングしにくい領域もあった。雪は溶けてニューイングランドにも春がやってきた。一斉に花が咲きそれは美しかった。南国では経験のできない自然とのふれあいがあった。やがてすべての苦労がむくわれる日がやってきた。ついに点突然変異を発見したのだ。5月15日のことだった。念のためにいくつか別のクローンでも確かめた。ちゃんとそこにシトシンからチミンへの変異があった。エリスロポエチン受容体の細胞外ドメインの129番目のアミノ酸がアルギニンからシステインに変わることになる。この変化は受容体の代謝の変化もよく説明する。おそらくこの変異が受容体をリガンド非依存的に活性化するのだろう。このことはこの変異遺伝子を正常細胞に戻すことで確かめられた。同僚のGregはこの変異遺伝子がマウスに白血病を起こすことを示した。エリスロポエチン受容体が元癌遺伝子であることがはっきりした。8月にこの論文はNatureに送られた。論文の審査員の意見は非常に好意的だった。9月に論文を手直しして10月12日にアクセプトの返事がきた。留学して僅か1年で夢はかなえられた。その夜、妻と祝杯をあげたのは言うまでもない。

  それからは割とのんびりと仕事をし、生活をエンジョイした。なにしろ日本と比べて半分の時間で二倍の仕事ができるのだ。慌てることもない。アメリカの労働効率が日本より劣っているなんてとんでもない嘘である。環境がまったく違うのだ(もちろんさきほど上げた日本の極く一部の億単位で動いているラボは別であろう)。ニューイングランドの秋はとりわけ美しかった。これも南国では味わえない経験である。月に2、3回はボストンフィルを聞きにいった。このころは最高に幸福な時期だった。それでも仕事は着実にこなしていった。次の1年でMolecular and Cellular BiologyとJournal of Biological Chemistry に2つの論文を発表することができた。Harveyの信頼も厚くなりMITの学生の指導もした。英語が苦手なのは相変らずだったが彼女は熱心に耳を傾けてくれた。彼女は名をTeresaといい、卒業後NIHでしばらくテクニッシャンをしてから医科大学に進学したいと言う。ご存じかもしれないがアメリカでは医科大学に進学するのは4年制の大学を卒業してからである。もちろん卒業後すぐ医科大学に入る人もいるが、医学生物学のラボで1、2年テクニッシャンをしてから医科大学に進学する人も多い。良い推薦状をもらえるしテクニッシャンをして学費を貯めることもできる(ポスドクより給料がよかった)。奨学金も貰いやすくなる。出身学部はいろいろである。Alanのテクニッシャンも医科大学をめざしているが、彼は文学部の出だった。医学生は一応みな学士なわけだ。だから勉強しないと容赦なく落第させられる。日本だと医学部を卒業できず免許も取れないとなるとどうにも食って行けない気がするが、彼らはすでにいちど大学を出ているのだ。万一卒業できなくても食っていけるだろう。だから腫瘍学の講義をさぼったり、内職したりするような学生は容赦なく落とされるのだ。ともあれTeresaは大変優秀な学生だった。わずか3か月の短い研修だったが一通りの遺伝子工学の技術を使いこなせるようになった.私は彼女を最後の論文の第二著者にすることにした。こうして名前が論文に残れば医科大学進学の時に有利になる。日本でもこういった経験を入学の時に考慮するようにしたらよいのだろうが,まあ受験勉強しかしたことのない高校生ではかえって足手まといになるだけか。

  Harveyはあらゆる講演でエリスロポエチン受容体の話をしていた。月に2,3回は講演に呼ばれていたのではないだろうか。そのたびにAki Yoshimuraの名前を連呼してくれた(そうだ)。なにしろHarveyのラボから出たエリスロポエチン受容体の論文9報の内4つは私が書いたものだし2つは私がいくつかデータを提供したものだ。またHarveyが行けない時は私を代わりに講演に行かせてくれた。英語での講演は準備が大変だったが,同じことを何回も言っていると原稿なしでも以外と一時間くらい喋れるものだ(講演と会話は別ものである)。これにはポスドク仲間にずいぶん世話になった。妻とイタリアに講演を兼ねて旅行をしたことは一生の思い出になるだろう。多くの高名な学者が私の名前を覚えていてくれた。私は自分が基礎生物医学研究の世界の中心にいる感じがしていた。Harveyの宣伝のおかげで、私は少なくともサイトカイン受容体の分野では活発に研究を展開している若手のひとりと目されていた。生命科学は日進月歩でありダイナミックに動いている。Whitehead Instituteはまぎれもなくそのひとつの中心である。ここにいる若者達はみな生き生きとしていた。みな自分達がサイエンスを創っているのだという自負を持っていた。もちろん彼らのほとんどは私達とたいしてレベルはかわらない科学者である。しかし優れた研究環境と若者が自由に行動し交流しあう雰因気,サイエンスのメッカであるという熱気はどうにもまねができそうにない。ニューヨークのアルバート・アインシュタイン医科大学で講演した後,準教授で来ないかという誘いがあったが,私はアメリカで学んだ知識や技術を鹿児島大学に伝える義務があると考え辞退した。鹿児島大学は残念ながら私達の分野では世界の中心から程遠い所に位置していると思う。はたして私の思いは受け入れられるだろうか。私は再び世界の中心に立って生き生きと活躍できるだろうか。難しいだろうがボストン留学,Natureへの論文掲載と思いは実現されてきた。一心にもとめ続ければ夢はかなうものかもしれない(夢をかたちに!)。まだ見放されていないなら私にはサイエンスの女神がついているのだ。もし自分の力を存分に発揮できる場さえ与えられるなら日本でもアメリカでも同じのはずだ。アメリカ留学の一番の成果はこの自信かもしれない。

ーーボストン留学の思い出(生活篇)に続くーー

後記:この小文は医学部学生の同窓会紙に掲載された(1992年頃)もので、学生にすこしでも基礎研究に関心をもってもらいたいという目的で書かれたもので、多少の脚色があります。話しが出来すぎている?いやほとんどは本当のことなのです。私には本当にサイエンスの女神がついているのです(単に運がいいだけ)。うそだと思ったら”DNAX研修の思いで”を読んでください。なお生活篇は原稿依頼がなかったためについに書くことはありませんでした。なおエリスロポエチン受容体のカルボキシル末端がなくなることはその後家族性赤血球増多症でも見つかって私の指摘が正しいことが証明されました。受容体がホモダイマーで活性化されがん遺伝子のようにふるまうことは次々と他のサイトカイン受容体でも証明されました。これから留学されるかたたちも”CNSに出さなければ帰れない”という気持ちをもって臨んでいただきたいものです。一所懸命なひとには夢はかならずかないます。

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