トップ  >  駆け抜けた5年半(前編)2001年頃

 2001年5月、私は新緑に囲まれた九州大学生体防御医学研究所にいる。3月、4月と引っ越しでおおわらわだったがようやく落ち着いてきた。ここから新しい学問を発信したいとひそかに情熱を燃やしている。まだまだ一仕事も二仕事もしたい。しかし、ここに来るまでの道のりは決して平坦ではなかった。私の専門とする”シグナル伝達”の世界は”マラソンを短距離走で走っている”と言われるほど進歩も早く、競争も激しい。私も一心不乱に駆けぬいてきた。久留米での5年半、とくにラボを立ち上げたはじめの1,2年を振り返って初心を忘れないようにしたい。そしてこの文章が少しでも多くの若い人たちの胸に響き、ともに走ろうという気になっていただけたら幸いである(この文章は大学院生勧誘のためであるので細部についての不遜な点はご容赦を)。

 1995年3月、一本の電話が私の運命を変えた。私は久留米大学分子生命科学研究所の教授に選ばれたのだ。36歳になったばかりだった。
 1992年にアメリカ留学から復帰してからは鹿児島大学で細々と研究を続けていた。2年続けて夏にカルフォルニアのDNAX研究所に短期滞在したものの、その後たまに研究生がひとり付く程度でほとんど自分ひとりとテクニッシャンだけという状況だった。鹿児島大学腫瘍研の教授の秋山先生の御好意で自分のテーマで研究させてもらっているだけでもありがたい、という状況であった。しかしさすがにあゆみは遅く、またアイデアはあっても手をひろげることもできない。このままでは秋山先生にも申し訳ない。そんな思いでなんとか早く独立を、と考えていた。しかしあちこちにアプライしてみたものの、私のような若輩に教授の口は無理な話だった。論文だって年の数ほどしかない。ひとつだけ某大学理学部からよい返事がった。しかし教授の公募なのに助教授ならという誘いだった。私より年上の講師だって多数いるから、というのが理由だそうだがそんな古い体質のところはこちらから願いさげにさせていただいた(本当はかなり迷ったのだが)。

 1994年の年の瀬に応募したのが久留米大学分子生命研だった。久留米は私の生まれ故郷である。現在の実家も佐賀県の隣の町にある。もし久留米で就職できれば親孝行ができるだろう。久留米大学医学部と言えば75年の歴史を誇る老舗の私立医大である。また久留米の分子生命研と言えば理化学研究所から移られた佐方教授が有名で、Natureなどに多数の論文を発表されていた。その後任の公募である。とても私のような若輩者が選ばれるとは思っていなかった。ダメでもともと、そんな軽い気持ちだった。なぜ私が選ばれたのか未だに疑問であるが、細胞工学部門の目加田教授が私を推してくれたらしい。その理由が”留学先でNatureに論文を出しているが、そんなことよりも地方のそれほど有名とはいえないラボから毎年確実にJBCに論文を発表してる”、”だからきっとどこでもやっていけるはずだ”、というものだったらしい。なんともありがたい言葉である。しかし決して私の対抗となった人たちが優れていなかったわけではない。あとでその方たちの名前を伺って、客観的にみて私よりもはるかに業績は多くかつ立派であることを知った。ただ私との大きな違いは、彼等がいわゆるビッグラボに所属していることであって、目加田教授の言われることもあながち冗談ではなさそうだった。しかし私はこれっぽっちも自信はなかった。赴任当初、院生を集めるためにDNAXでの研修時代(といっても3か月のことであるが)をエッセイ(”DNAX研修の思いで”)にまとめた。そのとき”私にはサイエンスの女神がついている”と豪語した。しかしそれは不安で押しつぶされそうになる自分への励ましであった。私は決して自信家ではない。楽観主義者でもない。才能もない、金もない、なにより有力な後ろだてをもたない(私は京都大学と言ってもあまり有名とは言えないラボの出身である)。はたして36歳の自分に何かできるだろうか?

 1995年7月のある日、私は久留米大学分子生命科学研究所に赴任した。鹿児島から自分の車で段ボール箱4つ、5つを運んできた。技術補佐員の大楠英子さん、佐方教授が残していった院生の原野君(精神科からの院生)、それとやはり佐方さんが残していった助教授の岡崎君の3名が迎えてくれた。総勢たった4名からのスタートだった。
 本当に何もにないところからのスタートだったが、しかしひとつだけすばらしい好材料があった。それは目加田教授が実験補佐員として当時彼のところでアルバイトをしていた大楠英子さんを紹介してくれたことだった。さすが私学、いまどき国立では実験補助のポストなど存在しない。これはレッキとした正規職員のポストだった。目加田教授は自分のところのアルバイトを昇進させたのかもしれないが、大正解だった。すぐに彼女は私にとってなくてはならない存在となった。まさに片腕となって仕事をしてくれた。我がラボの初期の遺伝子工学の仕事は彼女無しには成りたたなかっかだろう。そのノートは実に正確に精密に整理され、私が”あれはどこだっけ”と言えばすぐに出てくる。私はこれほど几帳面なひとを見たことがない。また性格もすばらしくよく私は精神的にも彼女に随分支えられた。
 
  さて、赴任してまず着手したことはお金とひと集めだった。金と人材、この2つがいつも頭のなかを占めていた。弱小ラボの教授は零細企業のおやじといっしょなのだ。サイエンスのことなど考えている余裕はほとんどなかったと言っていいかもしれない。私が稼いでいた研究費と言えば、当時の『一般C』と『がん重点』、あわせて600万円もなかった。幸い久留米大学の教室研究費は800万円程度でかなり多い。国立と違ってそこから電気代を引かれることもない。もし私と助手2名程度なら十分遊んでくらせる額だ。しかも前任の佐方教授の時代からの測定器などの備品がかなり残っていた。それでも細かいものは買わなければならない。一番最初に気がついたのは各部屋に時計がないことだった。近くのディスカウントショップに行って一個1000円程度のものを5個買った。ついでに格安のサランラップもひとケース買った。実験用のストップウオッチも台所用の500円くらいのものをチラシを見て買いにいった。当時は少しでも安いものを、という主婦の感覚だった。
 
ともかく先立つものはまずお金。ポスドクも雇いたかった。就任当初はほとんど実験もせずひたすら申請書を書きまくった。1年目は民間助成金を24出して12獲得した。といっても50万円くらいの小さいものも多かったので総額1200万円くらいだったろう。でもこれでポスドクをひとりは雇えると思った。そこで翌1996年4月から埼玉大学理学部出身の三澤君をポスドクとして雇い入れた。今から思うと大変な悪条件で来てもらった。月給15万円くらいではなかったろうか。それでも彼はよく頑張ってくれた。私が断片をとっていた新規PI3キナーゼの全長クローニングと機能解析をやってくれた。これは当初は3-4キロベースと短いものと思っていたのだが実際は7キロ以上あり困難をきわめた。何度も私はやめようかと思ったし実際彼にそう提案もしたが彼はRACE-PCRをかけまくり見事全長cDNAのクローニングに成功した。しかし残念なことに別のグループにJBCに先に出されてしまいBBRC行きとなってしまった。クローニングの難しさと怖さを痛感した。だが、三澤君の頑張りは無駄ではなかった。2年後1998年春、彼は静岡県立大学に助手として採用されたのだった。ともかくお金のほうはなんとかなるという自信がついてきた。

 
  次は人集めだ。仕事のほうは1年目は鹿児島の仕事の延長でEMBO J がacceptされたのでこれでなんとか(学会や研究報告としては)許してもらえるだろう。民間財団の申請書書きと並行して人集めに奔走した。助手としてその年の10月、九大の西本先生のところの出身の大坪素秋君をアメリカ合衆国フレッドハッチンソン癌研究所より迎えた。しかし、なにより大学院生が欲しかった。臨床から人を送ってもらいたいというわけで8月のある日、むせかえるような暑い中を臨床教室にあいさつまわりをした。まあお話を伺いましょう、という程度の所が多かったが一箇所だけ整形外科の井上教授だけが小宮講師(当時)を紹介してくれた。小宮先生は鹿児島大学出身だったのだ。同郷(ともに鹿児島に縁があるというだけだが)のよしみ、というわけで小宮先生だけが院生を近々送ってくれると約束してくれた。それが横内雅博君で大学院4年生で佐賀医科大学の出身だった。おそらくこのことが私の運命を変えることになったと思う。横内君は平成7年12月より研究室に来てくれた。彼は私が期待していた以上に優秀だったのだ。それからインターネットを活用することを思い付いた。私はそれまでメールやネットなどにはほとんど無縁であったので、隣りのラボの助手の若い三浦君が助けてくれた。当時FJ-bioというフォーラムがあって大学院生や学生がよく覘いているらしい。そこに大学院生募集の広告を出してもらった。ただ出しても関心を呼ぶことはないだろうと考えて衝撃的な文章にした。いまその全文は保存していないが、いわく4年で必ず学位をとれます、見学のための旅費出します、引っ越しのための費用も出します、そのほか立派な先生には見せられない過激なものだった(当時はまだ多くの先生方がネットをよく利用するという環境ではなかったと思う)。どんな学生でもいいから来て欲しい、というのが当時の偽らざる心境であった。しかしその反響はかなりなものだった。全部で10人くらいがレスポンスしてくれた。なかにはすでに博士課程に入っていているが私のところで勉強させてくれ、というのもあった。このなかから博士課程に入ってくれる院生3名を選んだ。筑波大学理学部から三井さん、大阪大学薬学部から増原君、そして岡山大学理学部から松本君。彼らは雪の降る3月に約束通り受験に来てくれた。雪で新幹線が遅れもしたが、実は本当に来るのかどうか最後まで心配だった。また少し遅れて博士課程在学中ではあるが東京大学農学部から岩槻君が、東北大学から遠藤君が来てくれた。何の実績もない、地方の無名の私立大学のラボに院生で来ようというのも大変な冒険だったことだろう。当時の研究所の報告書に私は『特筆すべきは平成7年12月より整形外科の大学院生である横内雅博君が研究に参画してくれたこと、さらに平成7年度より本研究部門に3名の博士課程の学生が入学し、他大学からの研究生とあわせて現在総勢13名の中堅規模の研究室となったことである。赴任当初はわずか4名であったことを思うと現在の研究室の賑やかさは感慨ひとしおである。』と書いた。今思い返しても院生ら3名が入ってはじめて歓迎会をやったときの喜びを表す言葉は見あたらない。

 さて12月に横内君を迎え一番最初にやったことはtwo-hybrid法でc-kitやJAKの結合分子をスクリーニングすることだった。せっかくラボをかまえたのだから今までやったことのないことにチャレンジしたい。DNAXでのサブトラクションに触発されて私は自分のラボをまず遺伝子クローニング中心のラボにしようと思った。酵母を用いたtwo-hybrid法は私にとって全く未経験な技術であったが大坪君がうまく動くようにしてくれた。それまでのCISの仕事はプロモーターの解析で打ち切り状態だった。B細胞のライブラリーから横内君はc-kitのキナーゼドメインをbaitにして2つの新規の遺伝子を単離した。ひとつはシークエンスの結果SH2ドメインが読み取れたので彼にはこれを続けて解析させることにした。それがAPS (Adaptor protein with PH andSH2 domains)であった。もうひとつは実はあとでJAB (JAK-binding protein 後のSOCS1と同じ)であることがわかったのだが当時シークエンスはRIを使った手作業で読んでおりJABの頭はGCが多くうまく読めなかったのだ。それでJAB(当時はBマルと呼んでいた)は後回しになった。本当は彼が解析してくれればあとあと苦労は少なかったかもしれない。

 やがて平成8年(96年)4月に待望の院生3名が入ってきた。三井さんは大坪君につけてtri-hybrid法のスクリーニング、松本君はCISプロモーターの解析、そして増原君にJAK2のキナーゼドメインを用いたtwo-hybridスクリーニングを行わさせた。当然お金がなくライブラリーはすべて大坪君が持ってきた同じB細胞のものだ。まずポジコンとしてJAK2のキナーゼドメインと横内君がとったいくつかのSH2タンパクとの会合をみた。ところがJAK2はAPSを含めてどのSH2分子とも結合せず、唯一結合したのはBマルだけであった。スクリーニングを行っても結局とれたのは同じBマルであった。これはクサイ、というわけで真剣にシークエンスをさせた。その結果やはりSH2ドメインが読み取れた。まだ当時はESTなどの検索のしかたを十分知らなかったのだ。それでもホモロジーサーチの結果この分子はCISに最も近いことがわかった。
 
  CISは”CIS/SOCSファミリーの発見”を読んでいただければわかるが、私が宮島先生のラボでサブトラクションによって最初にクローニングした遺伝子だった。松本君のCIS遺伝子のプロモーター解析からこれがSTAT5の標的遺伝子であることがわかった。CISはチロシンりん酸化されたサイトカインレセプターに会合し、STAT5の活性化の低下をもたらす。したがってCISはSTAT5によって誘導されSTAT5の活性を調節する一種のフィードバック調節因子といえる。しかしそれ以上の解析は培養細胞の系ではうまくゆかず、トランスジェニックマウスの誕生を待つことになった。ともあれ、CISは研究を継続はするものの、やはりmade-in-Kurume の新しい遺伝子をとりたかった。新しい遺伝子で新しい世界を開き、勝負しよう、というのが私の戦略だった(今思えば全く陳腐なものだが)。ところがそうやって新しい遺伝子を求めて全く新しいスクリーニングをしたのに取れたものはCISの仲間だったのだ!私は不思議な因縁を感ぜずにはいられなかった。しかしその真の重大性を知るのはもう少しあとになってからだった。

 JABの解析はE君にやらせることにした。しかし彼は実験科学に向いていていないようだった。まず実験しない。してもゲルの汚さは天下一品だった。JABのcDNAの5'末端もとれない。しかし私自身がのんびり構えていた。まさかよそでも同じ遺伝子をやっているなんて夢にも思わなかった。第一当時レポーターアッセイもできなければ(ルミノメータすらなかった)、JAKやSTATのりん酸化をみる抗体もテクニックもなかった。自分ではのんびりやっていたつもりだが、当時の院生にいわせると”10分おきに結果を聞きに来る”というせっかちぶりだったようだ。

 院生や医学部からの研究生はまだまだ素人のようなもので、特にPh.Dの院生は学生気分が抜けきれない。私は彼らに毎朝きちんと実験につかせるために毎朝9時からセミナーをやることにした。半分は recombinant DNA の読み会、半分は雑誌会だ。当然土曜日もセミナーだった。つまり日曜日以外毎朝9時からセミナーか雑誌会なのだ。今思い返してみると私も若かったし、時間がたっぷりあったのだろう。皆でラボをつくっている、研究に邁進している、という一体感があった(と思っていたのは私だけかもしれなが)。私は夜食事にもどって夜9時から12時までは仕事をしていたから夜中でも容赦なくつかまえて議論(実際は実験の計画をおしつけたり結果を要求したり)したものだった。当時はまだ私より先に帰ることに多少の躊躇があったようだ。三澤君は”自分は過労で死ぬかもしれない”と思ったそうだが、私に言わせれば彼らはまだまだ半分遊んでいるようなものだった。

 1996年の9月頃であったろうか、宮島先生から電話があった。オーストラリアの学会に行ったところ、WEHI研究所のMetcalf(造血では大御所)のグループのDoug Hilton が大変面白い方法で新しい遺伝子をクローニングし、それがどうやらCISに似ているらしい、という情報だった。彼らはレトロウイルスcDNAライブラリーを利用してIL-6のシグナルを抑制する遺伝子の機能的なスクリーニングを行ってSOCS1というCISに似た分子を得た、というのだ。宮島先生にはJABの話はしていなかったので、本当に偶然だった。私はSOCS1はJABと同じに違いないと直感した。私は色を失った。さらに宮島先生は、どうも同じ遺伝子が阪大の岸本先生のところでも捕られているらしいと告げられた。ええ!?どちらもビッグラボだ。一瞬でも遅れたらとうてい勝ち目はない。私は焦った。しかし、おかげでJABの機能も直ちに想像がついた。11月27日に第26回日本免疫学会総会シンポジウムで講演が予定されていた。岸本先生も来られるだろう。それまでになんとか発表できる形にしなければならない。レポーターはあいかわらずきれいなデータがでない。もはやあきらめて東大の谷口先生のところの宮崎先生にお願いすることにした。生物学的な活性をみるためにインターフェロンのシグナル抑制効果をみたい、ということで都立臨床研の藤田さん(現京都大学)に抗ウイルス活性もみてもらうことにした。ゲルシフトもできないのでこれも藤田さんにすがることになった。自分のところでやれる技術がこうも少ないものかと、落胆することしばしばだった。5’もあいかわらず取れない。しかし幸いゲノム構造は全く別の遺伝子の下流の配列としてわかっていた。ゲノムをクローニングして、その遺伝子を発現させてmRNAの大きさがかわらないことから5’末端を決めた。大楠さんのきれいな手が本当に役に立った。あとは機能だ。Dougのクローニングのstrategyから、またCISの仲間であることからJAB/SOCS1はサイトカインシグナルの抑制にかかわるであろうことは容易に想像できた。さらに我々はJABがJAKに会合することを知っている。私はJABはJAKのインヒビターであると思った。つまりDougの話と我々の話は2つで完全になる相補的な内容なのであった。そこで生化学的にキナーゼ活性の抑制を証明しようと努力したが残念ながら組み換え体JABはとれず、この計画は頓挫した(それは2年後安川君によって完成した)。もう時間がない。しかたなく293細胞にJAK, JAB,STATすべてを強制発現させて、JABによってJAKとSTATのりん酸化量が激減することを示した。JAKとJABが結合するというデータも293細胞でとった。まだ当時は293細胞でのoverexpresionもなんとか許してもらえる状況だったのだ。なんとかここまでE君の尻をたたき、しかし何度もあきらめたが松本、増原も動員し、私自身も実験をして11月27日は発表できるところまでこぎつけた。今のわがラボのレベルからみれば本当に稚拙なデータばかりであった。

 免疫学会での発表のあと岸本先生と少し話す機会があった。岸本先生らのグループでは仲先生が中心になってSH2ドメインを共通に認識する抗体を使ってSSI-1/JABをつりあげたらしい。岸本研では他のいくつかのCIS様分子もとっているらしい。そのとき論文の話はしなかったが、しかし総じてまだ同程度の段階のように思えた。そのときは気がつかなったが、横浜の学会で発表できたことが本当に幸いなことだった。

 横浜から帰るとすぐに論文を書き始めた。このときは1週間程度で書き上げた。英語も校正者に直してもらった。さあ明日はEMBO-Jに郵送しようというその日、なんと岸本先生から電話があった。オーストラリアのグループとback-to-backでNatureに出すという話がついたからお前のところもいっしょに出したらどや、という内容だった。これはものすごく嬉しい話しだった。我々のデータではとてもNatureなど無理な話。しかし岸本先生とMetcalfのgroupの後ろだてがあれば通る可能性はがぜん高くなる。天はまだ我を見捨てていなかったか。あと一日岸本先生の電話が遅かったら、どうなっていたことか。冷や汗ものだった。すぐにNature用に書き直して送った。12月の終わりのことだった。
 結局3グループとも決め手に欠いていたのだった。Dougたちはスクリーニングはエレガントであったがメカニズムが説明できない。我々はJAKとの会合は示すことはできたが生理活性に関するデータは極めて貧弱だった。実はおそらく最も苦しかったのは岸本グループで抗体によるスクリーニングであったため売りが少なかった。しかし3つをあわせれば相当インパクトのある話になりそうだった。もしこのまますんなりNatureに通ったら、自分の運命は変わるかもしれないと本気で思った。わくわくしながら返事を待った。Reviewerからのコメントが返ってきたのは1月の終わりに近かった。
 ところが3グループがback-to-backで出したにもかかわらず、コメントは大変厳しいものだった。特に我々の論文は英語がなっていないと極評されていた。これはNature用に書き直したあと校正にまわしていなかったためで、ある程度はいたしかたない。今でもこのころの苦しさを昨日のことのように思い出す。確かにひどい論文なのだ。英語はだめだしデータは情けない程汚い。やりなおしの実験をかなりの数、要求されていたが、いくつか不可能な実験もあった。特にendogenousな分子をみろ、という要求は抗体ができていない以上不可能であった。これはどのグループも無理な話だった。しかし、それ以外は実験を行いデータさえでればなんとかなりそうな感じもした。特にeditorは好意的だったのが何よりの救いだった。Dougに連絡して英語はみてもらうことになった。このころにはある程度メールで情報のやりとりをしていた。一度Dougから直接電話があったときは突然のことであがってしまい満足に話せなかった。私は英語が苦手なのだ。次回からメールにしてもらった。

 我々にとって幸運だったのはReviewerのひとりが Jim Ihle という大御所であったことだ。かれはノックアウトマウスの結果以外信じない人間で、我々は何度も煮え湯を飲まされてきた。もし今の彼ならoverexpressionだけの実験は無意味だとにべもなくrejectしていたことだろう。当時もすでにその傾向があったのだが、実は私はJimに投稿のかなり前に、JAK2のtwo-hybridで面白い分子をとったことを報告したことがあった。つまりその分子,JABに彼が非常に興味を持ち、ぜひノックアウトしたいと言ってきたのだ。とても当時自分たちでノックアウトマウスをつくれるなど思いもよらなかった。そんなお金も経験も人材もなかった。私は躊躇することなく共同研究をスタートさせたのだった。Jim Ihle もひとの子。もしこの分子が注目されればこれからできるノックアウトも注目されるであろう。いつもは超辛口の彼のコメントも多少は甘くなっていたのではないかと思う。しかし岸本先生のグループには例の調子だったらしく、”吉村はIhleと組んで岸本グループの論文を落とそうとしてる”とあらぬ疑いをかけられてしまった。日本で免疫関係で岸本先生に睨まれて生きていけるわけがない。岸本先生が怒っているといううわさを聞いてすぐに電話をいれた。ただひたすらあやまった記憶しかないが、まあ最後は全部通ったことで許してもらえただろう(と祈っている)。しかしIhleにはこれ以降、私自身も何度も論文をrejectされたし、トランスジェニックマウスの論文は極評され怒られた。ノックアウトの論文をCellに共著で出してもらったものの、あまりの理不尽さに今では連絡をとることもなくなった。

 しかし、他のふたつのグループはMetcalf、Kishimoto というアカデミー会員がついている。彼らにはProNASという奥の手もある。他のグループだけacceptになって自分のところだけ落とされたらどうしよう、という不安にさいなまされながら、実験を続けた。しかしDougたちは2月のはじめには送り返すというので非常に困った。もし遅れれば自分たちだけrejectされかねない。ともかくも、無理なところは無視して送り返した。しかし案の定editorもreviewerもうんとは言ってくれなかった。しかしeditorはもう一度reviseを要求してくれた。まだなんとかなるかもしれない。

 今度は3度目の正直だ。藤田さんからのインターフェロン耐性のデータ、宮崎さんからのIL2のレポーターアッセイの抑制などきれいなデータが届いて、なんとか体裁はととのった。2度目のReviseを送り返したのは3月後半になっていた。これでダメならBBRCに出そうとまで思った。ところがさらに3回目のrevise要求が返ってきた。おおむね好評になったが、まだまだ足りない。他のチロシンキナーゼには影響ないことを示せと言う。そこでNIH-3T3のstableラインを使ってFGFシグナルには影響ないことを示した。今なら1週間でできそうなことだったが、これにも3,4週間の時間がかかった。二回目でDougたちはacceptされたという話が伝わってきた。ますます焦った。ともかく細かいところを直し、送り直した。毎日祈るような気持ちでFAXを待った。ようやく4月なかばにはほほacceptの返事が、そして五月の連休の2日に正式なacceptが来た。これで連休を心から楽しむことができた。やった!Natureからのacceptの手紙を大きく引き伸ばして研究所の掲示板に貼った。

 ”次は君の番だ!”

 と赤くおおきく書き足して。本当に次は君の番なのだ。

その後はある程度順調に推移していった。共同研究の申し込みも増え、目標だった年間10報以上の論文を出すことができるようになった。いろいろな実験技術も定着するようになった。人も増え一時は総勢20名近くになったこともあった。研究費もまあ潤沢に集まるようになった。たださすがにラボのスペースとマウスの問題は解決できなかった。また医学部の臨床教室から人材の派遣は増えてきたものの、不定期でそうそう多くは望めない。ポスドクが雇えるような大型予算はさすがに無理。次第に私は大きな国立大へ移ることを考えるようになった。そして平成12年7月に九州大学の生体防御医学研究所よりofferがあり移ることが決まった。久留米に来てちょうど五年が過ぎていた。13年1月より正式に移動となった。この経緯はいずれまたの機会にお話したい。

 ボストン留学の思いで、DNAX研修の思いで、そしてこの文章と読みかえして、私がここまでこれたのは単に幸運であったのだ、ということに今さらながら気がつく。もし岸本先生からの電話があと1日遅かったら、もし整形外科の小宮先生に会わなかったら、、、、。偶然のいたずらか、本当に私は運にそして人に恵まれてきた。私はこれを”私にはサイエンスの女神がついている”と表現している。才能もない、頭も悪い、人と同じことしか考えつかない、全くの凡才の私。それでも運良く若くしてチャンスを与えられ、それに答えようと一生懸命だった。私と同じような非才の若いひとたちにぜひ伝えておきたい。神に愛されるためには犠牲が必要である。神はおそらく才能が一番好きなのであろう。しかしそれを差し出せない私は私の時間を差し出した。むろん趣味なく芸もない。仕事関係以外の本はこの10年読んだことがない。家族を全く顧みなかったわけではないが、たぶん普通の家庭より苦労をかけているだろう。家内に『会社のサラリーマンは深夜帰宅、休日ゴルフで私よりずっと家庭にいないのだ』、と言うと『あなたはそんなに稼いでいないでしょ』とやりかえされた。もし私と同じくらいの才能しかない凡才の若い人たち、しかも何のコネもなく学閥にも属さない人たち、しかしサイエンスが好きでこの世界で食べていきたいと思う人はどうか身を削って精進して欲しい。それしかサイエンスの女神に愛される方法はないと思う。マラソンを短距離走で走る覚悟が必要だ。ひとりで走るのは苦しいかもしれないが、多くの同じ目標をもった若者たちと一緒なら走り抜けられる。君も私と一緒に走ってみないか?

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