トップ  >  DNAX研修の思い出(おそらく1995年頃の作)

 本編はCIS/SOCSファミリーの発見に一部転記されています。久留米大学で独立してすぐの頃に学生を集めるために書いたものと思われる。



私と宮島先生とのつきあいは今から数年前の1992年1月にはじまる。私はその前年12月のクリスマスに2年3か月におよぶMITでの留学を終え帰国し た。ボスのLodish先生からクリスマスの日に出ていったポスドクはおまえがはじめてだと言われたが、鹿児島大学に帰る日を延ばすわけにもいかず泣く泣くボストンの地をあとにしたのだった。しかしいきなり日本というのはあまりに味気ないので、多くのアメリカ留学生がそうするように私たち家族もハワイ経由 で帰国した。成田についたのは29日、本当に年の瀬もおしつまった時期だった。

帰 国後は逆カルチャーショックでしばらく放心状態だった。すべてアメリカと比較したくなる。新聞をみると不愉快な事件ばかり(あまり愉快な事件というのはな いだろうが)、家内はスーパーに買い物にいってあまりの物価の高さに何も買えずに帰ってきた。家は狭いし道路は向こうから対向車がきたらどうやって擦れ違 うんだろうと思うくらい狭い。なんでこんな国に帰ってきたんだろう?しばらくは時差ぼけと称してほとんど仕事をしなかった。

1 月の末、たまたまアメリカにゆく機会があった。今回はアシロマというカリフォルニアの別荘地で開かれる免疫学者の会議に招待されてのことだ。といっても、 もともとLodish先生が招待されたのだが彼が用事で行けなかったため私に御鉢がまわってきたわけだ。まだ帰国したばかりだから英語は大丈夫。すでにセ ミナーは何回もこなしている。しかし、単に講演だけでは聴衆もおもしろくなかろう。谷口先生(インターロイキン2で有名な先生、現東京大学医学部教授)は 講演のたびにジョークをいってみなを笑わせるそうだ。よし私も、と思って昼間のセミナーをさぼってジョークをいっしょう懸命考えた。しかしそんなひねり出 したジョークが面白いはずはない。私は”妻は私のテクニシャンとして働いてくれた。彼女はいくつものエリスロポエチン受容体のミュータントをつくり出して くれた。ついでに赤ん坊もつくった。”などと今考えれば大変下品なジョーク(?)言ってしまった。あまりにうけなかったので動転してしまいそのあとの講演 はどうしゃべったのかよく覚えていない。以来、セミナーで下手なしゃれは言わないようにしている。

そのとき日本人で招待されていたのが大阪大学の岸本先生(インターロイキン6で有名、日本の免疫学会の中では神様のような存在)、そしてDNAXから宮島篤 先生、上淑(かじろ)先生であった。会議のあと宮島先生が車でアシロマ付近の海岸線を案内してくれた。このあたりは17マイルなんとかといって特に冬は太 平洋の荒波がすごい。サーフィンのメッカだ。ラッコの生息地としても有名なところだ。岸本先生はさすがに近寄りがたいが宮島先生、上淑先生は大変親しみを 覚えた。そしてサンフランシスコからの帰りにDNAXによってセミナーをしていくよう申しでがあった。どうせサンフランシスコには1泊するつもりだったの で私は喜んでOKした。今度は下手なジョークは出さなかった。

それが縁で以来何度か宮島先生とは電話やFAXで連絡をとるようになった。宮島先生は世界中を飛び回っておられるので様々な情報を知っていた。電話で世界 の様子を伝え聞くと、いてもたってもいられない気持ちだった。私だってつい数ヵ月前まではMITにいてサイエンスの世界の中心にいたのだ。鹿児島にもどっ たことを幾度後悔したことか。もう一度サイエンスの中心でおもいっきり実験したい。一流の研究者たちと議論したい。鹿児島では私は死んだも同然だった。研 究しようにもお金は全くなかった。同等にディスカションできる相手もいない。宮島先生から来年夏にでもDNAXで実験してみないかと言われたとき私は一も 二もなく了承し、さっそくフェローシップの応募にとりかかった。

5 月に国際学術研究という文部省の研究補助金に応募した。幸いなことにこの助成金のほうは11月に交付の内定が出た。カリフォルニアへの夢がひろがった。はじ めは3か月以上行こうと思っていたのだが文部省の別の科研費をもらっていると3か月以上の長期不在は許されない(当時は科研費は規則だらけだった)ことがわかって都合2か月半ほどアメリカに滞在 することにした。研究補助金で足りない分、アパート代とレンタカー代を宮島先生が出してくれることになった。そして帰国前の1週間をなつかしいボストンで 過ごすことにした。準備は整いつつあった。もちろん家族いっしょだ。ちょうど息子は2歳になるはずだ。彼はアメリカ独立記念日の7月4日にボストンで産まれた。きっとまた誕生日を国をあげて祝福してくれるだろう。ぜひ息子を連れていきたい。妻と2、3か月離れて暮らすのはなんともないが子供とは離れられそ うにない。

ところが出発の2、3か月前に なって妻が妊娠したことがわかった。それでも強引に連れていくことにした。途中病院にかかれば大変な散財をすることになると思ったが安定期ではあるしアメ リカでの出産の経験もあるわけだからなんとかなるだろう。不安もあったが後になってそれがよかったことがわかる。

私 たちが成田を経由してサンノゼ行きのアメリカン航空機に乗ったのは6月も終わりに近い頃だった。梅雨も真最中で鹿児島をたつ時も大雨だった。じつはその年 1993年の夏は記録的な冷夏で梅雨が8月まで続いたといってもいいような年だった。鹿児島では豪雨や台風のためがけくずれなどでこの年100 人以上が犠牲になった。繁華街の天文館も水につかった。米は不作で政府は米の緊急輸入を行った。そしてこの夏長かった自民党政権が倒れ細川首相のひきいる 連立内閣が発足した。それを私たちはカリフォルニアのテレビの日本語放送で知った。残念ながらこの歴史的な総選挙に私たちは1票を投じることができなかっ た。やはり海外でも投票を認めるべきだ。ともあれ日本は大変な夏だったが私たちは逃れることができた。とくに遊びざかりの子供にはよかった。カリフォルニ アでの2か月半、雨は1滴も降らなかったのだ。もともとこのあたりは雨は極端に少なく、冬に少し降るくらいらしい。あまり季節感のない土地なのだ。

DNAX はサンフランシスコとシリコンバレーで有名なサンノゼのちょうど中間ぐらいの町、パロアルトにある。スタンフォード大学のすぐ近くだ。成田空港では子供が 走りまわり飛行機の中では泣きわめいた。サンノゼ空港に降り立ったときは親子ともども疲弊しきっていた。出口ではDr.Yoshimuraと書いた紙を もった男が待っていた。宮島先生から迎えをやるとは聞いていたがどうも車の運転手のようだ。実際彼は荷物をもって我々を車まで案内してくれた。それがなん とあの胴長のリンカーンのリムジンではないか。こんなのどうやって乗ったらいいのかわからない。なんてはでなお迎えだろう。さすが企業は違うと感心する。 そのまましばらく住むことになるマリオット・レジデンスインにチェックインした。ホテルに着いたのが昼頃で家族全員そのまま夕方まで眠りこけてしまった。

さて私がDNAXに来たかったのはなんといっても自分の遺伝子が欲しかったからだ。なにも私自身の遺伝子を多く残したいわけではない。自分でクローニングした遺伝 子、吉村がとったと後世にまで残るような遺伝子が欲しかったのだ。日本に戻ってから私はチロシンキナーゼとエリスロポエチン受容体のキメラを作成し、サイ トカイン受容体も2量体化によって活性化されることをきれいに証明してみせたのだが、この論文はScienceにけられてLodish先生にさんざん待たされたあげくようやくProNASに載ったのだった。やはり日本からはメカニズムの論文は出しにくい。英語のつたなさもあるがやはり強力なボスの後押しが なければ強力な雑誌には載りにくい。その点クローニングだったらデータに関するクレームはつけられようがなく難無く通りそうな気がする(後にこれが大きな 誤りであることを知らされるのだが)。日本から有名な雑誌に出ている論文の多くはやはりクローニングがらみだ。それにまだ私はライブラリーを作った経験も なく遺伝子クローニングに憧れをいだいていた。DNAXの宮島先生のところではすでにIL3受容体をはじめ多くのクローニングの経験がある。ここなら何か とれそうな気がする。わずか2か月で本当にクローニングができるのかどうか不安ではあったが、自分のテクニックに多少の自信はあったし、だめでもともと、 カリフォルニアの太陽を満喫できただけでも得したというものだ。

DNAX についてはじめの1週間は安全の講習やらセミナーやらであわただしく過ぎて行きラボのみんなとディスカッションの機会が得られたのは2週目に入ってから だった。宮島先生のラボはアメリカ人は少なくテクニシャンのAlan、LoriとポスドクのAliceだけであとはみな日本人だ。やはり日本人のボスのし たではアメリカ人はポスドクをしたがらないのだろう。でも宮島先生のところの日本人は皆優秀だった。IL3受容体をクローニングした北村さん、サブトラク ション法を開発した原さん、それに医学部から市原さん、高木さん、岩本さんが来ていた。東大医科研の大学院生の大成もいた。高木さんはアパートが近いこと もあって大変お世話になった。大成は九州大学の理学部の出身だったが無口なのかおしゃべりなのかよくわからない変わった性格のようだ。学生らしいといえば 学生らしいが。しかしこう日本人が多いと英語を使う機会がない。極端にいえば全然使わなくても1日すごせる。実はここに来る前に英語のブラッシュアップに と4、5回個人教授してもらったのだがほとんどその必要はなかったわけだ。

さてはじめ私自身は受容体をりん酸化する酵素をCOS細胞を使った発現クローニングでとりたいと思っていた。それが受容体の情報を内側に伝える重要な分子で あると考えたからだ。そのための道具も日本からもってきていた。しかしここに来る直前、エリスロポエチン受容体に会合しているりん酸化酵素としてJAK2 が報告された。これは衝撃的なことだった。というのは私が1年前にエリスロポエチン受容体に130キロダルトンのりん酸化蛋白質が会合していることを報告 したばかりなのだ。その130KこそJAK2であった。私の論文の正しいことは証明されたが同時にその論文の命運はつきた。もう誰も引用してくれないだろ う。わずか1年の命だった。論文掲載までに2年をかけた自信作だったのに...。しかしそれ以上に重大なことがあった。JAKのつぎにはSTATと呼ばれ る転写因子がくることは別の系で同じ頃明らかにされており、ということは受容体−JAK−STAT−遺伝子という受容体からのシグナル伝達のほぼ全容が解 明されたことになる。我々はもう失業するのか?受容体がクローニングされてからわずか4年でもう終わってしまうのか。この分野は忙しすぎる。

ともあれすでに酵素がわかってしまったのと感度的にCOSを使った系では無理があることが指摘されて最初の計画は早くも頓挫した。そこで別の方向をさぐるこ とになった。ちょうどそのころ原さんがライブラリーを使ったサブトラクションの方法を開発しほぼ完成していた時だった。これは従来のディフェレンシャルス クリーニングと異なり、ライブラリーごとビオチン化し、引き算をし、サブトラクテッドライブラリーを作り、さらにそこからランダムにクローンを選んでシー クエンスを決めるというものだった。とても単純でライブラリーの作成からスクリーニングまで2週間ですむというしろものだった。しかし非常に乱暴な方法で もあり微妙な差を引き出せるかどうか未知であった。ともかくこれを使ってエリスロポエチンやインターロイキンで共通に誘導される遺伝子をとろうということ になった。つまり標的遺伝子を探すわけだ。というのはサイトカインのシグナルの研究は受容体からその下流にくだるほうばかりなされており、肝心の標的遺伝 子に関する情報がほとんどなかった。また標的遺伝子のプロモーターを解析することでJAKの下流にある転写因子を同定できると考えた。当時、サイトカイン で活性化されるSTATはまだ同定されておらず、また別の転写因子も関与する可能性もおおいにあった。なによりも複数のサイトカインが細胞増殖を刺激する ことから増殖に必須のサイトカイン共通の標的遺伝子が存在すると考えられていたがそれ自体はまったく未知であった。細胞をサイトカインで刺激し、その前後 でサブトラクションを行えばそのような遺伝子がとれるにちがいない。

私ははじめるにあたっていくつかのアイデアを加えることにした。もちろんはじめてのことなのでプロトコールに従うべきなのだろうけれど、私には長年の勘でど こがポイントかはだいたいわかる。原さんには悪いがいくつかモディファイさせてもらった。まずはライブラリーの出来が重要と考えて、cDNAはサイズセレ クションせず、カラムを1回通すだけにした。これによって10の7乗という大きなサイズのライブラリーができた。またcDNA合成からベクターに入れるま でmycの発現を常にモニターすることにした。がん遺伝子mycはすでにすべてのサイトカインで共通に誘導されることが知られていた。したがって各ステッ プの出来はmycの量で検定できる。mRNAの精製からライブラリーの作成まですべてPharmaciaのキットを使った。ライブラリーがこんなに簡単に 作れるとは驚いた。何の難しい点もなかった。しかし問題はお金だ。ライブラリーを6つ一度に作った。予備実験を含めてすべてつくるのに1000ドルはか かっただろう。日本で買うと倍はするから20万円はするだろう。1週間でこれだけ使うのはさすがに気がひけた。しかしそこはDNAXだ。やはり企業は違 う。まさに湯水のごとく試薬を買うことができた。私はピペットマンひとそろいをDNA用とRNA用に各々新品で買った。何も文句はいわれなかった(それら はもちろん帰国の時持って帰った)。おそらくDNAX滞在中に1万ドル(100万円)は軽く使っただろう。しかし宮島先生は動じなかった。すごい。もちろ ん今となっては十分もとはとれたと思っておられるとは思うが。サイブトラクションそのものはプロトコール通り行った。これには何の問題もなさそうだった。 しかし引き算したあとのcDNAをベクターにつなぐ時に問題があることに気がついた。

毎日の生活は2週間もすると安定していった。レンタカーを借りていたので買い物などは不自由なかった。もともと日系人やアジア人の多い町なのでたいていのも のはそろっていた。たまに少し遠いがヤオハンまでゆくとそこは日本人であふれていた。はじめの1カ月はレジデンスインに泊まっていたが、やはりホテルでは あまりに高くついた。家内の定期診察も保険なしではべらぼうに高くつく。私はなんともないなら診てもらわなくていいと主張したが、するとひとでなしとののしられた。やはり山の神にはかなわない。でどうしようと思っていたらたまたまホテルにいた日本人からオークウッドという家具つきの短期滞在用のアパートを 紹介してもらった。もともとこのあたりは電子産業やバイオ関係の企業が多く短期滞在者のためのこういったアパートも充実しているらしい。さっそく移ること にした。ここはプールやテニスコートがついていて、部屋もテレビや家具、電話もそろっていてものすごく快適だった。値段も半分くらいだった。夕方5時に 帰ってきてプールで泳いだり子供を連れて近くの公園めぐりをした。大きな公園がいくつもあって子供があそぶ施設も整っていた。湿気が少ないのですごしやす く夕方になると気温もさがって快適だった。夕食をすませると9時頃私はまたラボに戻っていつも帰るのは12時すぎだった。時間がないというあせりもあった が、この生活パターンがすでに身についてしまっていた。平日はこうやってかなり集中して働いたが週末は常にどこかに出かけていた。わずか2か月あまりの滞在だ。いけるところは全部いきたい。サンフランシスコの市内はもちろん、モントレー、カーメル、ナパバレーのワイン工場めぐり、映画(このときはジュラ シックパークを2歳の子供といっしょにみた。なんと彼は最後まで退屈することなくしっかりと見ていた)、遊園地とガイドブックに載っているほとんどの観光 地をまわった。自分でもよく遊んだと思う。最後はヨセミテまで6時間車を飛ばしてゆき2泊した。夕暮れどきのハーフドームはそれは美しかった。ここは神々 が遊ぶところといわれている場所だ。セコイアの木もくぐってきた。しかしおかげでひどい花粉症に悩まされた。

さてはじめに作ったサブトラクテッドライブラリーからは200ベース以下の極端に小さなDNAしか回収されなかった。これは予想されたことだ。またインサー トのない空のベクターも半分近くあることがわかった。とくに今のような差がちいさい2つのライブラリーのサブトラクションは原法では困難なことは明らか だった。そこでベクターにつなぐ前にカラムを通し小さなDNAを除いた。さらにインサートを電気泳動でサイズごとにわけ、別の薬剤選択マーカーのベクターにつなぎ直した。これで長いインサートが確実にとれる。もとのライブラリーからの空ベクター混入もない。同じ実験を2回行ったのですでに6週目に入っていた。だいぶあせってきた。Loriに自動シークエンサーの使いかたを 習い、合計100個のクローンをシークエンスにかけた。得られたデータはスタンフォードのデータベースに送られ既知のものと比較された。このへんのシステムはやはり大変充実している。コンピュータの専門家もいる。およそ半分が既知でのこりは未知の遺伝子のようだった。次々と面白い遺伝子がでてくる。cdk4や Ran, Id, IL4受容体、IL3受容体、IL6もあった。もしこれを数年前にやっていたらNatureにだせる論文がいくつもできただろう。しかしランダムスクリー ニングとはそんなものだ。未知のものは重要かもしれないが、くずにすぎないかもしれない。それはひとつひとつに集中して調べていって最後にならないとわか らないのだ。

しかしなかに新しいサイトカインが2つ入っていた。1つはケモカインでもうひとつがオンコスタチンMだった。オンコスタチンはヒトからはとられていたが、マウスでは長い努力にもかかわらず見つけられていなかった。オンコスタチンはサイトカインで誘導されるサイトカインだったのだ。これだけでも十分価値があっ たし、こういろいろ出てくると未知のもののなかにも宝がありそうな気がしてくる。さっそくノーザンで発現を確認することにした。しかし時間はもう1週間も 残っていなかった。実は私はそれまでノーザンをやったことがなかった。RIでのラベルもめんどうくさそうだった。しかしそうも言ってられない。大成にプロ トコールと試薬をもらっておそるおそるノーザンをやった。しかし一度にできるのはせいぜい5、6個だ。だいたい私は細かい作業はきらいだ。実験台もきれいではない。RNAはコンタミするとすぐ壊れるからなるべくなら扱いたくなかった。しかしやらなければ。ことろがビギナーズラックなのか1回でうまくいっ た。15個ほどの遺伝子を調べて実際誘導がかかっていたものがオンコスタチンを含めて3つあった。のこり2個は未知のものだった。ひとつは後にp21とい うサイクリンキナーゼ阻害分子であることがわかる。またまたNatureをのがしてしまった。でもひとつでも未知のものがとれた!しかもそれはエリスロポ エチンでもインターロイキン3でも誘導された。2か月で目的は達せられた。これで大手をふって日本に帰れる。よく遊んだだけにものがとれて本当によかっ た。

私と同時期に3人が同じ方法で標的遺伝 子さがしに挑んだ。私のあともまた日本から2人きて同じ方法を試みた。しかしかれらはいずれも何も得ることはなかった。なぜかはよくわからない。私ほど執 念をもたなかったのか。私の小さな改良をためさなかったのか。いや多分私は本当に運がよかったのだろう。私にはサイエンスの女神がついているのだから。しかし多くのひとが挑んで私だけが成功した。このことは長く語り継がれることになった。

もちろんとれたcDNAは遺伝子の断片であって全長ではない。部分シークエンスからは何の情報も得られなかった。私はしかし、ことサイエンスに関してはよほど運に恵まれているらしい(もっとも金と女には運がないようだが)。日本に帰ってこの誘導遺伝子の全長をとりはじめた。実はコロニーハイブリもはじめての ことだ。フィルターにどうやってコロニーを移したらよいかさえわからなかった。こんなときDNAXやMITだったらそばでだれかがやっているからすぐに教 えてもらえるのに。なかなか進まなかったが試行錯誤のうえようやく全長がとれた。もう11月にはいっていた。DNAXでのすすみかたと比べるとまるで亀の 歩のようだ。さっそく塩基配列を決定した。12月の終わりにようやくだいたいのシークエンスがまとまりアミノ酸として読むことができるようになった。しか し塩基配列からはやはりなんのホモロジーも情報も得られなかった。家内が12月20日に出産した。女の子だった。クリスマスの夜私はひとりでラボにいた。 翻訳したアミノ酸配列をながめていると特徴的な配列があることに気がついた。トリプトファンーチロシンートリプトファン、WYW、、、どこかでみたことが あるなあ。さっそく雑誌をひっくりがえしいろいろなモチーフを調べた。フォスファターゼでもない、キナーゼでもない、SH2だ!その後ろにも GTFLVRDとSH2に保存されているモチーフがはっきりと読めた。やった!自分が手にした遺伝子は新しいSH2ドメインを持った遺伝子なのだ。なんというクリスマスプレゼントだろう。SH2をもつということはこの遺伝子産物が情報伝達になんらかの役割をはたしていることを意味する。きっと皆おどろくだろう。子供も産まれたし、来年はよい年になりそうだ。すぐに宮島先生にFAXを出した。誘導遺伝子にSH2ドメインがありました。これで気分よく新年を迎 えられます。ありがとうございました。と。

後 日談:この遺伝子、サイトカインによって誘導される遺伝子ということでCIS(cytokine-inducible SH2 protein)となずけられた。はじめは誘導遺伝子、SH2ということで十分価値があると考えてMCBに送った。SH2は企業も力を入れてクローニング にかかっている。いつ先に出されるとも限らない。早く発表しておきたかった。ところがなんということか機能のわからない遺伝子は載せられないとリジェクトされてしまった。厳しい、いや厳しすぎる。いままで機能のわからない遺伝子をさんざん載せてきたくせに。いまやクローニングやモチーフだけでは論文にならない時代なのか。それではサブトラクションなんかやるやつはいなくなるぞ。でも憤慨してもはじまらない。ここは腹をくくって細胞に発現させて機能を調べる ことにした。しかし大量発現株はどうしても得られず結局デキサメタゾンで誘導する系をつくった。そしてCISがインターロイキン3やエリスロポエチン受容 体と結合すること、大量発現によって細胞増殖が遅くなることを見い出した。半年よけいにかかったが論文は確かに格段によくなった。もはやMCBなど問題外 だ。論文は1995年1月末にEMBOJ(MCBより1段上のランクの雑誌。分子生物ではCellなどに次ぐ権威がある)に送られ、たいしたコメントもな く3月には受理された。みたかMCB。思わず溜飲をさげた。

翌1994年の夏、今度は1か月、DNAXに滞在した。国際学術の補助金は2年間続くからだ。こんどは親子4人になった。この年は日本は記録的な猛暑だっ た。やはり夏をカリフォルニアですごせてラッキーだった。この時もよく遊んだ。ロスアンゼルスまで車で片道8時間かけて遊びにいった。ディズニーランドで 遊び、サンディエゴの昔の同級生の福永君を訪ねた。このときもしかしCISとオンコスタチンのプロモーター部分をクローニングし、ちゃんと日本に成果をもって帰った。決して遊びほうけてばかりいたわけではない。今オンコスタチンの論文も完成し、おそらくまたEMBOJに出せるだろう。しかし残念なことに 宮島先生は東大分子細胞生物学研究所に教授として戻られることになった。私はカリフォルニアでのホストを失った。同時に私自身久留米大学の教授就任が決まって鹿児島を去ることになった。もはや家族で夏を気候のいいカリフォルニアですごすこなんてことは2度とないだろう。ボストンでの2年3か月と同様、パ ロアルトでの計3か月は多くのすばらしい思いでを私たち家族に残してくれた。

私たちはNTTの官舎の近くに家を借りて住んでいた。小さな子供が多く、うちの子供らもよく一緒に遊んでもらっていた。鹿児島を去る日、車に家財道具を積んで借家をあとにした。その友達だった小さな子供たちが走って車のあとをいつまでもいつまでも追ってくれた。このときの光景を今でもよく思い出す。鹿児島って本当にいい町だった。

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