トップ  >  駆け抜けた5年半(後編)2002年ごろ

 平成14年4月。九州大学生医研の教授を拝命して1年余り、すなわちラボの引っ越しがはじまった日からちょうど1年が過ぎた。この1年で新しい大学院生が6名入り、久留米からの脇岡君、庄田君(ともに整形外科)が卒業していった。助教授だった松崎さんが琉球大学の教授としてこの2月に旅立った。今年は4月に4名の院生を迎えた。なんだかんだと雑用ばかりであまりの忙しさにホームページの更新も、ましてや”駆け抜けた五年半”(後編)の執筆もままならない。これからもっと忙しくなるだろう。これからもっともっと仕事はしたいが、私が自分の人生で一番輝いていたと思える時期はやはり久留米の5年半だと思う。

  平成13年夏。この年は猛暑で多くの熱中症患者を出した。蝉時雨の音がやまない、8月9日、福岡のNHKが取材にやってきた。その日発刊されたNatureに載ったSPREDの話題を聞きに来たのだった。私は得意げだった。しかし何より筆頭著者の脇岡君の頑張りに敬意を表し たい。何よりも彼は”頑張ればこのラボからでもNatureに出せる”ことを示してくれた。その功績は一番大きい。

実は脇岡徹君とのつきあいはかなり長い。私は久留米大学に来る前は長く鹿児島大学で助教授をしていた。鹿大の医学部生のなかでも基礎研究に関心があるものが何人かおり、よく英文テキストの輪読会などをしていた。現在、阪大の高井先生のところで大学院を経てKan研で主任をしている大塚念久君、鹿大の生化学で助手をしている大久保儀君、岡山大学で血液内科をやっている木口亨君などがいた。そのなかにまじって脇岡徹君や現在私のところの大学院4年の金城市子君がいた。脇岡君は平成7年早春、鹿大を卒業したあと久留米大学の整形外科で研修をする、と言ってあいさつに来た。もともと実家が福岡だという。私は久留米大学分子生命研の教授選考に応募していたが、それが決まる少し前のことだった。私は予感がしたのか、”きっとまた何か縁があるかもしれないね”といって別れた。

そして平成9年4月、あれから2年の月日を経て脇岡君が私のもとに大学院生としてやってきた。整形外科からは横内雅博君、鈴木律君に続いて三人目だった。もちろん皆小宮先生が送り出してくれたのだった。はじめは横内君につけていろいろな解析技術を学ばせることにした。特に横内君がクローニングしたAPSの機能をサイトカインシグナルの系で解明する仕事を行った。すでに横内君はAPSc-Cblと結合しPDGFのシグナルに抑制的に作用することを明らかにしていた。同様のことがサイトカイン受容体で起こらないか調べることが彼の最初の仕事だった。脇岡君は手もきれいで(実験のうまいことを業界用語で”手がきれい”という)なんと半年くらいで順調に仕事はまとまりLeukeimaに論文を発表した。これを学位論文とすることで彼は卒業を待たずに新しい仕事に着手することになった。それは横内君が留学したYale大学のBaron博士のチームが作った破骨細胞のライブライリーから新たな破骨細胞の分化や機能を制御する分子をクローニングすることだった。

横内君は平成10年6月よりアメリカ合衆国イエール大学のDr.Baronのもとに破骨細胞におけるシグナル伝達の共同研究のために留学することになった。通常臨床から派遣された院生がそのまま留学することは極めてまれなことであり、小宮先生の配慮があってのことであろう。また脇岡君も論文が出て学位が確実になったにもかかわらず基礎の教室に残ることになった。Baronのラボは破骨細胞を大量に集めcDNAライブラリーを構築していたが、それを使いこなす技術がなかった。私達はといえば2匹目のドジョウではないがないが、相変わらずtwo-hybridのスクリーニングをくり返していた。それしか能がなく、マウスはようやくトランスジェニックマウスの飼育ができるようになったくらいでノックアウトなど思いもよらない時代だった。ともかくtwo-hybridに関しては経験をつみ、どこよりも早くスクリーニングできる自信ができてきていた。例えば技術補助員の佐々木美加さんはstem-cellのライブラリーから新規アダプター分子STAP-1をクローニングし、その解析を大学院の増原が行い学位論文とした。脇岡君にはBaronの破骨細胞ライブラリーからc-kitに結合する分子をクローニングしてもらうことにした。一方横内君はc-CblRINGフィンガードメインに結合する分子としてユビキチンガーゼE2UbcH7を捕まえていた。そのデータを持って留学したのだが、私自身はその意義を当時推し量りかねていた。この事実が後に癌抑制遺伝子としてのc-Cblの機能を明らかにする大きな手がかりとなる。

  Cbl120KDaN末端側にSH2様ドメイン、中央にRING finger ドメイン、C末端側にプロリンリッチドメイン、多数のリン酸化されるチロシン残基、C末端付近にロイシンジッパーを持つマルチドメインからなる巨大な分子である。線虫の遺伝学などからチロシンキナーゼからのシグナルを負に調節する働きがあることが分かっていた。しかしその抑制のメカニズムは明らかではなかった。またB細胞リンパ腫よりとられたCblの変異体はわずか17アミノ酸の欠失をもち、RINGフィンガー領域の一部を欠いていた。またレトロウイルスの癌遺伝子v-CblRINGフィンガー以降の領域を欠失している。そこで横内君はCblのシグナル抑制因子、あるいはがん抑制遺伝子としての機能においてRINGフィンガーが重要であると考え、RINGフィンガーをbaitに用い、得意のTwo-hybridスクリーニングを行ったのだった。その結果ユビキチン結合酵素群(E2)のメンバーであるUbcH7が得られた。私は最初はいつものnon-specificな結合と思った。two-hybtid法の欠点は非常にバックが高いことで、”かす”ばかりとれることがしばしばだった。しかし当時、酵母ではいくつかのRINGフィンガー蛋白質がユビキチン転位酵素と結合することが知られるようになって、ひょっとすると本物かもしれないという気持ちがでてきた。横内君はBaronのラボでこの仕事を継続することになった。BaronのラボではCblに関心があり、Natureにも論文を発表していた。Baronは整形外科領域に知名度が高く、学位をとってしばらくして横内君は留学したいと彼に手紙を書いたらあっさりと受け入れてくれたのだった。Cblとユビキチンリガーゼの組み合わせは突拍子もないことに思われたが、留学の前後にCblを高発現している細胞ではPDGF受容体の分解とダウンレギュレーションが促進されることがある研究者から報告された。まだユビキチン化との関連の証明はなされていなかったが、機はまさに熟しつつあった。

平成10年10月日本生化学会から奨励賞をもらった。CIS,JABなどの仕事に対して評価してもらった。このころが得意の絶頂だったかもしれない。安川君の仕事が紆余曲折を経たもののEMBO J にほぼacceptされJAB,CIS3ノックアウトマウスの作成もJim Ihle のラボで着実に進行しつつあった。もらった奨励賞の一部は慈善団体に寄付し、残りで教室員に感謝の気持ちを込めて慰労会を催すことにした。黒川温泉に一泊してとことん飲んだ。教室員も15名くらいにはなっていて、このときラボの前途が揚々たるもののように思えてならなかった。

平成11年(99年)5月、私はBaronの研究室を訪れる機会があった。Cold Spring Harbor でのシンポジウムに出席しての帰りだった。Cold-Spring Harborではなつかしい人物にあった。以前エリスロポエチンの仕事で共同研究をしたYun-Cai Liuという中国人だった。彼はキリンビールでポスドクをしたあと、サンディエゴのLa Jolla Institute for Allergy and Immunologyで中ボスとして自分でラボを持っていた。免疫のラボでまさか彼がCblをやっていようとは夢にも思わず、彼ももちろん私たちがCblをやっていることを知らず、別の話をして互い健康と研究の進展を祈って別れたのだった。

横内君の仕事は仕事は順調に進んでいた。横内君はBaronのラボの材料を駆使してCblE2と会合し、EGF受容体をユビキチン化すること、がん遺伝子としての変異Cblにはその活性がないことを見事に示した。これは全く新しいがん抑制遺伝子の機能の発見であり、当然インパクトの高い仕事と思われた。はじめはScienceくらいにとBaronらも考えていたようだが、いくつか難しい実験もあり、結局夏にNature Cell Biologyに送られ、Editorの判断で蹴られてしまった。Editorはこの論文の価値を理解していないことは明らかだった。結局JBCに送り直して9月にacceptされた。

ところが10月8日号のScienceをみて驚愕した。なんとCblRINGE2と会合してEGF受容体をユビキチン化するという論文がTony Hunter のラボから出されたのだった。しかもTony-Hunter自らがNewsとしてとりあげているのだった。Tony Hunter Srcがチロシンキナーゼであることを発見したこの世界では大御所である。彼が言えばScienceには問題なく通っただろう。横内君もだめもとでまずScienceに出せばよかったのに、と残念に思った。あっちはTony Hunterなのだからしかたがない、と思った。ところが、である。よくみるとScienceの論文はTony Hunterlast authorではなくLiu YCというのがラストオーサーだった。これがなんとあの Yun-Cai Liu だったのだ。もし5月に会ったときにCblの話を出していたら、と思わず絶句した。もしあのとき彼らの情報が得られていたら、当然back-to-backで出せてインパクトもさらに大きくなったことだろう。運がなかったとはいえ、自分の決定的なミスに落ち込んだ。いまだに横内君にはLiu YC が私の知り合いだったことを話せていない。

しかしジャーナルのランクはどうあれ論文の価値はかわらない。後にMolecular Cellにも同様の論文が出された。すぐに共結晶構造もCellに出された。その後、E2RINGフィンガードメインの会合は広範囲に認められ癌抑制遺伝子機能と関連が深いことが次々に明らかにされていった。例えば乳癌抑制遺伝子BRCA1、大腸癌抑制遺伝子産物DCCを分解するSiah-1、さらに癌抑制遺伝子p53をユビキチン化/分解促進することが知られているMDM2などにもRINGフィンガードメインが存在し、やはりE2であるUbcH5と相互作用する。重要な仕事をやったのだから胸を張るように横内君に言った。彼は翌年早々に日本に帰り、4月から鹿児島大学の整形外科に入局し研究の要として活躍している。ときどきユビキチン関連で講演に呼ばれることもあるようだ。鹿児島大学の整形外科は私とゆかりの深いあの小宮先生が平成11年10月に教授になっていたのだ。留学したために根無し草となった横内君にとってはよい機会だった。私のラボが成り立っていったのは小宮先生が横内君や脇岡君など優秀な院生を送ってくれたからだった。感謝のつもりで鹿児島へ応援の手紙を書いたりもした。小宮先生が教授になられたこで少しでも恩返しができたのでは、と思っている。

話を平成10年にもどそう。脇岡君はBaronからもらった破骨細胞のtwo-hybrid libraryc-fmsMCSF受容体)やc-kitのチロシンキナーゼドメインをbaitにしてスクリーニングを行っていた。この話は横内君が仲介してくれて共同研究が実現したのだった。Baronのラボではlibraryはつくったもののtwo-hybridスクリーニングが出来る者がいなかった。ほんとうは横内君に期待がかけられていたのだろうが彼はCblのほうで手がまわらない。そこで我々からぜひに、とお願いして送ってもらったのだった。そして脇岡君はいくつかの新しい遺伝子を発見した。そのなかでひときは光っていたのが(面白いと思われたのが)今のSpred、当時の637あるいはWA-1(脇岡のWAか)であった。c-kitとも結合することを確かめた。ホモロジーサーチの結果、そのC末端部分がシステインに富み、その当時報告されたばかりのSproutyににていることがわかった。このときは私が自分でサーチをしたのでSproutyに似た構造を見つけたときは興奮した。平成11年の初春のことだった。

  Sprotuyは線維芽細胞増殖因子(FGF)のシグナルを抑制する分子としてショウジョウバエで報告されたものだったのだ。しかもファミリーを形成している。私はCISに次ぐ新たな抑制分子ファミリーを探し当てたにちがいないと踏んだ。これに研究室の命運を託して、JAB(SOCS1)のときと同様多くの力を結集することにした。しかしまだfull-lengthではない。そこでヒマがありそうな松本君にRACEをやらせ完全長をとらせた。しかしかなり難航した。データベースの検索からWA-2(SPRED-2)があることもわかっていたがこれも完全長のcDNAをとろうとしてかなり手こずった。佐々木美加さんに様々なdeltion-mutantを作ってもらってtwo-hybrid法によってc-kitとの結合部位を決めてもらった。また彼女の夫の佐々木敦朗君にはそれまで順調だったCIS3の仕事を中断させて293細胞を使ったアッセイ系を立ち上げてもらった。SproutyRas-MAPキナーゼ系を抑制する因子であるとされている。我々のラボにはサイトカインやSTAT系の遺伝子などはそろってきたがRasMAPキナーゼ関連の遺伝子は皆無だった。ともかく遺伝子集めから出発したが、当時東工大の上代(かじろ)先生、佐藤先生、東大医科研の後藤由希子先生などにはさんざんお世話になった。そうやって様々な系をたちあげながら多くの院生、研究員を動員して完成を急いだ。ふたたびサイエンスの女神が微笑んでくれることを祈って。しかしすでに私は自分で実験する余裕はなかった。指示は出すものの、彼らの頑張りが頼りだった。細胞を使って生理作用をみる実験に脇岡君は邁進していった。SproutyとおなじくWAMAPキナーゼを抑制しそうだった。そこでMAPキナーゼが細胞の運命を決めるのに重要とされる神経様細胞のPC12を使って解析を行った。PC12細胞はMAPキナーゼ依存的に神経細胞に分化する。MAPキナーゼ阻害因子であるならばこの形態変化を抑制するはずである。実際にSPREDは強制発現によって強力にPC12の分化を抑制した。平成11年5月に整形外科より庄田君が派遣されてきたが彼もWAプロジェクトに有無を言わさず参加させた。彼にはC2C12というこれもMAPキナーゼによって筋肉細胞へ分化する系を用いた解析を行ってもらった。平成12年1月からは九州大学出身の加藤玲子さんをポスドクとして迎え、いきなりノックアウトマウスの作成にあたってもらった。これが我々のラボでつくる2番目のノックアウトマウスになるはずだった。まだ論文もできていない段階でノックアウトにとりかかるのは無謀にも思えたが、やはり身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、ここは自分のカンと運にかけることにした(それにつきあわされた加藤さんにはすまないが、運命をともにしてもらう覚悟は(私だけは)できていた。現在このマウスは面白い表現型が出ており解析中である。ともあれ表現型がでたのでほっとしている)。WA-1,WA-2、2つの遺伝子をともに潰すことにした。加藤さんはWA-3も見つけてくれた。

  実はノックアウトの一番目はSH2-Bというアダプター分子であった。これは東大医科研の高木さんとの共同研究としてスタートした。平成11年(99年)の1月からゲノムのマッピングとコンストラクトを大楠さんにはじめてもらった。SH2-Bは我々がとった遺伝子ではなかったが、横内君がとったAPSの仲間である。ところが高木さんが留学中からLnkというもうひとつの仲間のノックアウトを行い解析しており、その流れですでにAPSもノックアウトをはじめていたのだった。彼はSH2-Bもやりたいが手が足りないということだった。我々の手でぜひノックアウトを、と夢みていた(もちろん世間からみたらいまさらと思われるかもしれないが、やはりノックアウトマウスの作成にはお金と時間がかかり、ある程度の余裕がなければとても手を出せないように思われた。私には夢の技術だったのだ)私が引き継がせてもらったのだった。コンストラクトのデザインは私にとってはじめてのことでかなり手間取った。ノックアウトは目加田研が先行しておりポスドクの宮戸君に随分いろろ教えてもらった。しかし3個から4個ものピースを組み合わせて、かつのちのち制限酵素でうまく切れるようにしないといけない。詰め将棋の数手先を読むような思考を必要とするように思われた。もともとアバウトで緻密でない私の頭では詰めきれず、大楠さんにはやり直しを何度もさせてしまった。いろいろな情報からアームは長いほうがよいだろうと9キロぐらいのものを入れた。こんなに長いものを大楠さんはblunt-ligationですんなりサブクローニングしてみせてくれた。大楠さんのきれいな手のおかげで、早くも春にはコンストラクトは完成した。最後のligationですべてがうまく入ったことを確認したときには抱き合って喜び(たかったが照れ屋の私には残念ながらできなかった。ひどく後悔している。それほどうれしかったということである)。このマウスは翌年春には生まれ院生の大塚君が解析を担当した。コンストラクトがよほどよかったのだろう。20%以上の効率でESに入っていた。はじめはあまりの高率にサザンの間違いではないかと疑った。ビギナーズラックだったのかもしれない。

平成12年4月から阪大に異動された目加田教授にかわって竹島先生が教授になって赴任してきた。このころしょっちゅう竹島さんに愚痴をこぼし、”ぼやきの吉村”と呼ばれるようになった。とにかく忙しいし、論文はなかなか通らないし思い通りにならないことばかりだった。WAoverexpression(過剰発現)のデータばかりではあるが平成12年8月にはだいたい形が整ってともかくもNatureに出してみた。WA遺伝子にはSproutyに似たドメイン以外にEVH-1、あるいはWH-1WASP-homology)と呼ばれるドメインがN末端にあった。そこでWasplinと名付けて投稿した。しかし1週間で帰ってきた。この7月には私は九大の生医研に移ることが決まっていた。竹島先生には悪いと思ったが、やはり久留米大学での研究に限界を感じていたのだった。移って成功だったか失敗だったかはわからないが前に進むためには”昆虫の脱皮のように”移ることは必要なことに思われた。引っ越しはハードな仕事だった。とてもここには書ききれないので”駆け抜けた5年半(引っ越し編)”にいずれ書きたいと思う。

ともかくも相手にされなかったわけだが、ここからは脇岡君の驚異的な粘りが発揮された。幸にもEditorはどこが問題かを指摘してくれていた。最大の問題は内因性のSpredが本当に機能しうるのかという点で、これにはノックアウトが出来ていない以上、抗体のインジェクションかドミナントネガティブ変異体の発現しか手はなかった。抗体インジェクションはきわめて難しい技術のように思われたが、機械は幸にも前年私学助成で買ってもらった全自動のものがあった。脇岡君は本当に粘り強く実験しついに抗体によるMAPキナーゼ活性の上昇と生理活性の上昇をつかまえることに成功した。もう自分では手を動かす時間もない私はただ見守るしかできなかった。抑制のメカニズムについても佐々木君ともどもいくつかの決定的なデータを出してきた。蛍光イメージングの手法では実験補助員として雇った田中直子さんがすばらしいデータを出してくれた。SpredRas,Rafと会合してRafの活性化を抑えというメカニズムがはっきりした。そして12月6日に新たなバージョンをNatureofficeに送った。もうネットで送れる時代になっていた。今度は名前をSpredに変えた。Sproutyの仲間であることを強調したのだ。Spred Sprouty-related protein with EVH-1 domainの略である。もちろんこの分子から新しい世界がSpread(広がって)くれる願いがこめられていた。今度はReviewerにまわったようだ。2ヶ月ほどして返事が来た。Reviewerからは山のようにコメントが寄せられたがどの問いにもなんとか答えられそうな気がした。

  EditorNature Cell Biologyに送ることを示唆したがここは脇岡君の頑張りに期待するしかない。もう間もなくラボの引っ越しがはじまろうとしていた。私は院生や研究員が引っ越して仕事が中断されることがないように最大限の努力を払った。脇岡君は実験を続け私は4月15日にRevised Versionを送った。引っ越して2週間ほどしてからのことだった。そして6月8日にほぼacceptの返事が来た。再々実験は要求されなかった。脇岡君が破骨細胞のライブラリーから遺伝子の断片をつり上げてから実に3年余が過ぎていた。私のような気の短い者がよくここまで待てたと思う。これはひとえに脇岡君の粘りと実験に対する真摯な姿勢のたわものだと思う。朝早くから夜遅くまで休むことなく、またあきらめることなくひたすら実験にとりくんできた。私はただ励ましの声をかけていたにすぎないのだ。その姿勢にはただ頭が下がる。これをひとりでも多くの院生や研究員に受け継いでもらいたいと思う。

  この”駆け抜けた5年半(後編)”では脇岡君と横内君が中心になっているが、ラボが大きくなって実に多くの院生研究生が集ってくれるようになった。そのなかでも久留米から九大にともに移ってくれた面々、立ち上げ協力してくれた面々に深く感謝したい。SOCS関係では庄田君の間接リウマチの論文(JCI2001)が多方面で取り上げられ、花田君の長年の大作もいよいよ実を結びつつある。吉田君、佐伯さん、金城さんの仕事も仕上がろうとしている。この間初期の院生たちはそれぞれの道に羽ばたいていってくれた。その詳細はまた次回に譲ろう。”独創とは何か”という苦しい論争もあった。竹島先生、児島先生のことも書きたい。残念ながら私の思いが常に正しく理解されるとは限らないし、世代のギャップのためか理解できない若者も増えてきている。今回は苦労話はあまり載せていないが、やはりラボは人で動いており人間関係では苦労はつきない。

書き残しておきたいことはまだまだたくさんある。しかしこれだけは読者に伝えておきたい。はじめは自分の手で、あるいは自分が頑張れば、という思いが強かったが、多くの若者と苦楽をともにすることでだんだん考えかたが変ってきた。私の今の最も大きな喜びはここに集った若者がそれぞれの目標にむかって邁進し成長し、そして巣立っていってくれることである。不勉強でたいして優れたアイデアもでない私では頼りないことこの上ないが、彼らのエネルギーと斬新さでカバーしてくれるものと信じている。私はもはや自分のために仕事をしたいとは思わなくなった。

文芸評論家の中村光夫はこう述べている。『時代を超えて生き残ることは、一世紀に十指にみたぬ天才だけに許された例外であり、大部分の作家は、彼の生きる時代との合作で才能を開花させ、時が来れば次の者に席を譲る。しかもこれだけのことを成就するためにも、衆にぬきんでた才能と努力と職業的誠実と、さらに多くの幸運が必要なのは、我々の周囲をみてもわかることである。』作家を科学者に置き換えても全く同じことが言えると思う。私は幸いにして30台半ばで独立するというチャンスを与えられた。はじめは研究費も人も頼れる後ろ盾なく本当にゼロからの出発だった。そのなかでもがいてもがいて頑張ってきたつもりだった。しかし今思い返すと結局自分ひとりでは何もできていない。この5年半で50報以上の論文を発表したがそのリストは多くの若者たちとの共同作業で作り上げてきた成果なのだ。私は彼らに活かされているのだとつくづく思う。これからも自分のためではなくここに集う者たちのため、そしてひいては病に苦しむ人々のため、という思いを常に抱いて私ももうひと頑張りしたい。



追記:SpredRas-ERK経路の負の制御因子である、という事実はその後ヒトの遺伝学によって証明された。ベルギーのEric Legiousらとの共同研究により、ヒト神経繊維腫症I型(NF-1)様の患者でSpred1の機能欠失型の変異が発見された(Nat Genet. 2007 Sep;39(9):1120-6.)NF-1の原因の多くは neurobibrominというRas-GAP遺伝子の変異であり、Ras-ERK経路が過剰に活性化されて起こる疾患である。ヒトで同様の症状にSpred1が関与することからSpredneurifibrominと同様にこの経路を抑制する遺伝子と言える。実はtwo-hybrid法でおびただしい遺伝子がRas-ERK経路に関与するとして取られて報告されて来た。Natureにもいくつか出ている。これら遺伝子の相互作用の多くがその後artifactであることがわかっているが、Spredは間違いなくRas-ERKの抑制因子である。脇岡君らの正確で揺るぎのない実験結果があっての成果だと言える。

追記2)なお当初我々はSpredはRas−Raf−Spredの複合体がRafの活性化を抑制すると報告したが、最近SpredのEVH1ドメインがNF1と結合することでNF1を細胞膜へリクルートすることが報告された。この結論は我々の手でも再現性がとれている。我々が最初に出した説はSpredを大量に発現させた場合には確かにそうなる。しかし生理的な条件ではどうやらNF1のリクルートのほうが重要らしい。overexpressionは時に非生理的な結論を引き出すことがあるので注意が必要だ。

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