天下のご意見番の『棚上げ』論
須田先生はご存知のように『須田爺』と呼ばれている。これは水戸黄門よろしく『ご意見番』として学会や大学、あるいは時には文科省に対しても歯に衣を着せずに意見されるからだ。よほど癇に障ることがあったのか末松元医学部長が何度も紹介されたように、須田先生は『意見する時は自分のことは棚に上げて言わないといけない』とおっしゃる。なるほどそうでなければ辛口の意見は言えず組織はよい方向にいかないだろう。私のような小心者には『オマエが言うか?』と言われそうでとてもできることではない。須田先生だから言えるのである。ただ先生も時々タテマエに走りすぎるきらいがあり、ご自身が言い出して出来た制度を『誰がこんな面倒くさいことを言い出したんでしょうね』とおっしゃることはあったのではないかと思う。それが許されるのもまた須田先生の奇特なところであろう。
須田先生との思い出で忘れられないことがある。私が慶應に来てすぐの頃、某先生の教授就任祝いを少人数の仲間内でやるので来いと言われた。先生ごひいきの小さなビストロで、一本ウン万円はするワインを何本もあけて皆かなりご機嫌だった。さすが慶應の教授になるとすごいもんだ、と感心していたら帰り際に『じゃあ割り勘で』。先生はこういうところは厳格なのだ。
実は私と須田先生とのつきあいは古く、先生が熊本大学発生研に、そして私が久留米大学に居たころなので20年以上前からということになる。久留米大学と熊本大学は電車で1時間半ほどの近い距離にある。ある時先生に呼ばれて熊本に行った。『発生研でポストが空いたので来ないか?』と誘われたのだ。『私が全面的にサポートしますから』とずいぶん熱心に誘ってもらったのだが、丁度そのころ九州大学からもお誘いがかかりそうだったのでだいぶ迷ったもののお断りした。大変申し訳なく思っていたらほどなくして先生は慶應義塾大学に移っていかれた。置いてきぼりを食わなくてよかったのかもしれない。
慶應に移られてからの先生の活躍は八面六臂で、多数の優れた論文を出し、多くのお弟子さんを教授にされた。それをみて今度は私のほうから慶應に行きたいと言い出した。先生にあやかりたいと思ったからだ。またさすがに今度はすぐに何処かに行かれることはないだろう。残念ながら先生とは違って私の場合は業績や後進の育成は環境ではなく教授個人の資質に依存することが大きいことを実証したようなものだが、それでも先生が居られたことは大変心強く、私および私の周辺で問題が起こる度に伺う先生の意見は貴重だった。ある時進路について重大な決断をしなければならないことがあった。二者択一しかなく大いに迷った。最後に先生のもとを訪ねてご意見を伺ったところ先生は明快に『こっちにしなさい』と一方を示された。それで迷いが吹き飛んだ。解決にならなくても聞いていただけるだけでも安心感があった。それがもうなくなるかと思うと非常に寂しいが、熊本にも拠点を置かれるそうなのでいつかまた私の『ぼやき』を聞いていただきたいものである。
追記:先生に『原稿は誰に送ったらよいですか?』と聞いたら先生ご本人だという。渋々先生に送ったら、『タイトルが面白くない』とrejectされてしまった。それにしても退任教官の記念文集の原稿を当の本人が校閲(検閲?)するなど聞いたことがない。しかもお手本として仲野徹先生の原稿が添付書類で送られて来た。仲野先生と言えば当業界きっての文筆家である。『もう一週間時間をください』と猶予をお願いしたら『先生は研究に専念されてください。タイトルは“棚に上げて”にしておきましょう』と先生が決めて下さった。『まさに“棚上げ”ですね』と切り返したが、天衣無縫の先生のされることはやはり常人では推し量れないと感心する。『七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず』(孔子)とあるが先生はずっと以前からその境地に立たれているような気がする。
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