持田記念財団と私


私と持田記念財団とのおつきあいは相当に長い。というより持田財団からの支援がなければ今日の私はなかっただろうと言えるくらいの恩義がある。最初の助成金は平成元年に留学助成を頂いた時だと思っていたが、財団の
HPで調べると名前がない。おそらくこのときは文部省の在外研究員に選ばれたので辞退したのだろう。次に財団にお世話になったのは平成4年、研究助成金を頂いた時である。留学から鹿児島大学に戻ったものの科研費はすべて外れ、民間助成金だけが頼りだった時で本当にありがたかった。このときの研究資金はアメリカDNA研究所への短期派遣とそこで得られたcDNAクローンの解析に使った。これがCISCIS/SOCSファミリーの最初の遺伝子であった。同じ年の受賞者に須田年生先生(現在慶應義塾大学)、高木智先生(現国立国際医療センター)、吉開泰信先生(現九大生医研)、斉藤隆先生(現理研、免疫学会理事長)、 中山俊憲先生(現千葉大学)などの現在では親しくしていただいている先生方のお名前も見える。

 
次に頂いたのが平成
8年でこの時は久留米大学分子生命科学研究所の教授になったばかりであった。しかし何分若輩者ゆえに研究費は乏しく、実験で使うサランラップやティシュペーパーもチラシをみて近所のスーパーに自ら買いに行くという、まさに赤貧洗うがごとし、の有様だった。しかしこの年にJAKに結合する新規分子JAB(後のSOCS1)のクローニングに成功した。論文は年を越して1997年にNatureに受理された。それでもまだ大きな研究費がすぐに当たる訳ではない。当時は最先端・次世代支援などといった若手を支援する制度はなく、基盤Cがもらえれば御の字という時代だった。平成10年に私の教室の研究員が、平成11年には助教の安川君が申請してさらに研究助成金をいただいた。自分で応募しなかったのは今と同様3年以上たたないと新規の応募はできなかったためではないかと思う。少々狡かったかもしれないが、ともかく研究費が足りなかった。助成金は当時はまだ一件100万円の時代であったが、それでも30台の新米教授にはありがたいお金であった。また助成金のおかげでSOCS1の機能解明が進み安川君の論文はEMBO Jに掲載されたし、Ras-ERK経路の抑制因子Spredをクローニングしたのもこの頃である。決して無駄には使っていない。


次に私の名前が受賞者リストに現れるのが平成
13年でこの年の1月に九州大学生体防御医学研究所(生医研)に異動している。生医研の建物はかなり特殊で動物実験室を生化学実験室に造りかえるのに多額の費用を要した。このときも100万円のご支援だったがほとんどは引っ越しと工事に使ってしまった。民間助成金は公的資金ではまかなえない用途に使うことができるので本当に貴重だった。この年の8月にSpredの論文はNatureに掲載された。発見から3年以上が経過していた。これらの成果のおかげで同年『学術創成科研費』と言う大型の研究費に採択されようやく研究費の心配がなくなった。この研究資金を得てはじめてマウスの発生工学を使った個体レベルの研究ができるようになった。その成果もあってCIS/SOCS Spredの発見と生理機能の解明で平成19年に持田記念学術賞をいただいた。しかしそのもととなる種は持田記念財団からの研究助成金の賜物である。翌年春には慶應義塾大学への異動となった。またまた多額の物入りであったのでこの報奨金は非常にありがたかった。ちなみに30周年記念の学術賞のお一人は一條秀憲先生でお互い駆け出しのころからの長いつきあいである。彼も独立当初の助成金のありがたさを語っていた。

 
このように持田財団の
30年の歩みは私の研究の歴史そのものでもある。折々に本当に貴重なサポートをいただいた。特に駆け出しのペーペーの時の助成金はまさに干天の慈雨のごときである。また同期に援助を受けたひとたちとは様々な場所で出会いを繰り返して知己となり研究のネットワーク形成に役立っている。おそらく現在50台の多くの教授が同じ思いを抱いているのではなかろうか。持田記念財団の意義はまさしくここにある。


私は平成
20年からは助成金の免疫分野の審査員を務めさせていただいている。これまでの恩を考えれば審査員の労くらい当然である。申請書には20数年前の私がうようよいる。できるだけ本当に助成金を必要としており、それを糧として羽ばたける若手に支援を届けるべきである。そうなるようにしっかり審査をしていかなければならないのだ、と改めて肝に銘じたい。